月別アーカイブ: 2019年8月

日々雑思 小さな旅と旅する力

早朝に出る。チキンバスに乗って山道を揺られる。慣れたものでなんのトラブルもなく国境を越える。最後の乗り換えで5ケツ程ぼられる。隣の客も同様にぼられ、文句を言って後からこっそり返してもらっている。ちょっと微笑ましくなった。車掌の気持ちもわかるし、客の気持ちもわかったから。知らないふりをしてあげる。イミグレでスペイン語のわからない外人が滞在地のホテル名がわからないと騒いでる。英語でそこは重要ではない行く場所だけ書いておけと言ってやる。ちょっと驚いた風に英語できるのかと言うので、出来ないように見えたかと聞き直してやる。

イミグレの係も顔を覚えていて、今回はどこで何日だと聞くので隣町で23日だと答える。それなのに180日のスタンプを押してよこした。何するんだと聞くのでスーパーで買い物と映画を見る。あとはのんびりするだけだと答えた。

先ほどの外人がトイレに行きたいと言う。場所を教えてやる。一緒に行かないかと言うので途中までなら行ってやる。でもその先はお前一人だけど大丈夫かと聞くと少し悲しそうな顔をしているのでアレで行けと旅行者用のバスを指して別れた。外人もおんなじなんだと変なことに感心している自分がおかしかった。

地元のバスで目的地へ向かう。途中カンバンを眺めながら随分とわかるようになっていることに気がついた。少しずつスペイン語もまともになっているのだ。ホステルにチェックインしてスーパーに行く。久しぶりの大型スーパーにテンションは上がる。ところが歩いても歩いても欲しいものがない。いいなぁとは思うのだけど買うところまでいかない。宿に居るとアレもコレもと思うのだけど、どれも事足りてしまっているからわざわざ買う必要がないことに気がついた。随分と変わったものだと思う。物欲がなくなってしまった。ミニマムな暮らしに憧れていた日本での生活は実は贅沢三昧だった。やっとグアテマラで貧困に近い生活を通してそれがなんであるかということに気がついた。

スーパーを出てセシリアに頼まれたサンダルを物色しに行く。写真を撮ってどれがいいか聞いてやる。バカな女中ではあるけれど、今では留守を頼めるほどに信頼を寄せている。彼女もまたそれがわかっていて随分と遅くまで宿に居るようだ。寄ると触ると喧嘩になるがそれもいいのだと思った。夕方、ちゃんとやっているから心配するなというメッセージに苦笑いしてしまった。今のままでは彼女を大学に復学させることは難しい。それでもなんとか卒業だけはさせてやりたいと思った。メキシコからサンダルを密輸入して稼いでやろうか、もう少し商才があればと悔やむ。

明日、指定されたものを買ってやろう。

楽しみにしていたのは映画。ところがどれもこれもつまらなそうなものばかりで惹かれるものがない。どっかりと椅子に座ってポップコーンでも食べながらと思っていたがやめた。

バスに乗り、セントロへと向かう。一番安いバスはそこら中に寄り道するのでなかなか進まないのだけれどそれがとてもいい。オッこんなところにとかアレなんだといった気づきがたくさんあってワクワクする。そういえばこんな風にバスで観光するなんてとんとなかった。セントロで降りてブラブラと歩く。夕暮れのセントロでは民族衣装を着た男女が踊っている。カフェでくつろぐもの、ベンチで愛を囁くものがいて楽しい。

すでに外国にいるという感覚もなく。日本で休みにフラリと知らない街に出てきたような感覚。肩に力も入らない。当たり前のように出来る用心。いつのまにかこちらの生活がすっかり身についてしまったのだ。少し嬉しくもあり少しさびしくもある。今回の更新でパスポートが期限切れとなる。ふとこのまま不法滞在のままずっと過ごしてやるかと無精癖が頭をもたげる。パスポートがなくたって近隣の国々に入る方法やルートはしっかりわかっている。そうであっても心の底に残った日本人の感覚が、それはいかん、ちゃんとしておけと歯止めをかけてくれるので今回はグアテマラで更新することにした。本当の事を言えば日本に帰ることが怖くなってしまった。日本の方が絶対にいいに決まっていて。仮に生活保護を受けたとしてもグアテマラの生活より数段上の暮らしができるのだから。そうであってもグアテマラの暮らしには余裕がある。心のゆとりや人としての暮らしがある。明日のゴハンの心配は絶えなくてもどうにかなる事を僕は既に知ってしまった。毎日規則正しい暮らし、衣食住を大切にしながら勉強が出来る環境にあって、喜怒哀楽を素直に出して生きることをもう少し楽しんでみたくなった。

このホステルにはメキシコ人しか居ない。彼等と話し、笑い、遠くに聞こえる花火の音を聞いている。小さな旅は、僕がまだ旅人である事を思い出させてくれた。僕は旅する力を手に入れたことがわかった。

日々雑思 日本を食べる

たまには違うタッチで書いてみようかしらと考えて一本は純文学官能編、もう一本は某有名なマンガ?テレビ?パクリと言えばそうだけど、怒らずにお読みくださいませ。

和三盆

イネからとれるその甘み。盆の上で研ぎ澄まされ舟に重す。繰り返すこと三度。淡い黄色のそれはひとたび口に入れば甘美な淫水のやうに広がり恍惚のかなたへと誘う。甘塩苦辛における日本人がもつ味覚の基本。遠い昔に食べた甘柿の甘さ、和菓子が持つそれ。

かりんとう客から差し入れられた。香川産。うどんが有名なだけに知られていないが香川、徳島は和三盆の産地でも名を馳せる。和紙を模した小袋。和三盆と銘打ってある。うっすらと見えるかりんとうは薄い膜がかかったように和三盆に包まれ淫靡な声ではやく口にお入れくださいと懇願しているようだ。まだ陽が高くこんな時刻では世間様の目もあるであろうと後ろめたい気持ちと、目の前にいる抗いようのない透き通るような肌を持ったかりんとうにむしゃぶりつきたい衝動が拮抗する。

いい歳をした殿方がする事ではないとわかってはいる。いけないことに宿に客は居ない。二人きりとなった私とかりんとう。軽い罪悪感と共に私はハサミに手を伸ばし帯を解くやうに袋に当てた。絹のような袋ははらりとはだけ、かりんとうの裸体がこぼれ落ちた。透き通るようなその肌にそっと触れる。身を硬くするかりんとう。指先でそっと触れるととろけ始めた和三盆、そっと口に含む。得もいわれぬ官能がひろがり恍惚となる。コリっと歯を当ててやるとかりんとうは身をよじるように崩れ落ちた。私はかりんとうを貪るように食べた。かりんとうのすべてを堪能し和三盆の甘さに酔いしれた。そして、用意してあった静岡産の新茶を急須から湯呑みへと注ぎ、ゆっくりと啜った。

なんという豊穣。なんという繊細。日本が生んだ至極。かりんとう。やはり昼の情事はかりんとうに勝るものなし。

 

一風堂のカップラーメン

時間や社会に囚われず、幸福に空腹を満たす時

束の間、俺は自分勝手になり、自由になる

誰にも邪魔されず、気を遣わずにものを食べるという孤高の行為

この行為こそが、グアテマラに住む俺にも平等に与えられた、最高の「癒やし」と言えるのである。

モノを食べる時はね、客と一緒じゃぁダメなんだよ

なんて言うかね

救いがないじゃない

誰も居ない台所でね

独り静かで豊かで……

俺は客と食べるのが嫌いというより

食べている時、誰かに声をかけられるという状態がいやなんだ

人嫌いって訳じゃないんだよ

ただ美味しいものってのはさ

やっぱ、一人でたのしみたいじゃない

「ヒデキさんコレ」と差し出されたのは某コンビニが監修したカップラーメン。九州発信のそれは日本にいた時から流行っていた。随分と長いこと食べていない。「オッ!コレって・・・ありがとう」こうした物って人によっては身体に悪いとか、塩分が多いとか言われるけど、美味しいからいいかって気にさせるなにかを持ってるんだよ。

客の無い夜、台所に立つ

一見ゆるそうな振りをしているが、このカップラーメン、出来る!

佇まい、パッケージ、注意書き

これらの総合的な雰囲気からこのラーメンの真髄を感じる

いかん、雰囲気に飲まれるな、落ち着いて見定めなければ

浮ついてしまった集中力を、もう一度高めなくては負けだ

先ずは言霊の力を使い、自己暗示にて気を落ち着けるのだ

一旦、麺を置いて外に出る

遠くに聞こえるミサの声に耳を傾ける

高揚した心が落ち着いた頃合いを見計らって再びカップラーメンに対峙する

カップラーメンってある種のライブ感あるでしょ

一人なのに頭の中、いちいち大歓声って言うか、お湯が沸くまでの時間やフタをして待っているとき、もうヤバイんだよ、なんていうのかさ

後入れのスープを入れる時って、ワクワクする

それを食する前段階の儀式としてのスープ入れ

フタの上で大切に温めてきた友情

今から始まる至福の時に向かって、期待が嫌が応にもたかまるでしょ

やっぱり日本製の袋って切り口がすごいんだよ

どっから切ったってスパッと

気持ちがね、いいんだよ

こういうのは塩分がどうのこうのだのつべこべ言わず、ドバドバ行くのが礼儀でしょ

美味しい物を美味しく食べる手段があるのに、

それを敢えてスルーします?

それこそ、愚の骨頂、無粋の極み

自分の好きな様に好きなものを食べてこそ、食事は美味しくなるんじゃないかな

待っている時間てさ

じれったいんだよね、なんていうか身の置き所がなくて、ついつい立ち上がって余計なことしたくなるもんだけど、そこは我慢しなきゃ

大人なんだから

 

おお、この香り、この法悦

フタをめくった瞬間の幸せ

期待感が高まった後の、解放された匂いの恍惚

食べる前から美味いと分かる瞬間

ウッフゥ〜

俺は、最終的にはこういう飯が一番好きな気がする

カップラーメン一つ

これだけで堪らない程美味い

無駄を削ぎ落とした状態こそに味の真髄が宿っているんだと実感できるんだよ

 

う゛~ん、汁と一緒に麺がドゥルドゥルッと入って来るのが堪らん

最後に残ったアレやコレの欠片

これをかき集めて傾けて、

一気にドゥルドゥルッと食べるのが美味しいんだよ

この残り物達に、味の精髄が凝っている

体が欲してた味

こういう物が必要だったんだ
美味しい物がまさにピッタリはまった時

このセリフを言える喜びこそ、食の醍醐味

食べ終えたカップを見ながらのBOSSプレミアム缶

アツシさんから頂いた貴重なヤツ

こういうヤツが居ると実に有り難い、ホッとする

無上の幸せ

明日、地球が滅びるとしたら迷わず缶コーヒーを選ぶ、陳列棚でキンキンに冷えたヤツ

キャップをひねった時の感触、音、匂い

完璧というのはこのことだ

 

差し入れで頂いた缶コーヒーと、カップラーメンそしてかりんとう。いずれも甲乙付けがたい程美味しかった。グアテマラで過ごしているのがアホらしくなる程の味。日本の凄さを、まざまざと実感出来た。なにをどう比べても到底かなわない東にある日出ずる国。逆に帰ることが怖くなってしまった。

日々雑思 いけないねぇ

近所に泥棒が入った。うちの庭先を通り抜けたのではないか、見てよいかと警官が来る。昨夜は雨が降り土は均され人が通ればすぐにわかる。なにもない。ところが彼等はここだと言い切る。どう考えても不可能なところから盗んだ物を運び出したに違いないと言っている。アホらしくなり話を聞くのをやめる。ずぅと二階のテラスにいたので誰かが通ればすぐにわかる、誰も通っていない。あっちからであろうと指を指してやった。バタバタとそこへ行き野次馬共々踏み散らかしているのを見てここなら泥棒も捕まることなく取り放題だなと笑ってしまう。侵入した窓枠をベタベタ触りどんどんと手掛かりを掃除している。まさか被害者自ら犯人の手助けをしてくれるとは随分と親切な奴等だ。泥棒は包丁も持って逃げた、危ないと騒いでる。隣の女房はお前のところが鍵をしていないからだと騒ぎ立てる。自分の家の門だって閉めていないであろうに。あまりにバカバカしくて付き合いきれない。

最近、景気が益々悪くなりボート、メルカド至る所でボリ始めている。外国人と見ると見境なく吹っかけているのを見るとこの村の連中の教養の無さを感じて嫌な気持ちになる。そうした話をセシーにするといつもと違ってどことなくソワついている。きっとこの村の連中がなにをしでかしているかはわかっているのであろう。金がなくなると途端にこれだ。

ZUMBAの帰り、酔っ払いにたかられる。お前は英語が出来るのかと下手な英語で聞いてくる。金をくれ、ビールをくれと偉そうに言うので、しまいには頭にきて働けバカと言ってやる。それを聞いている村人が悲しそうな顔をする。臭い息を吹きかけられているのはこっちだ。恥を知れと吐き捨てる。

金を貸してくれと言われる。貸せば返ってこないのだ。断る。夜、教会の連中を呼んで大音量で祈っている。飯が振舞われ、飲み物が振舞われている。貸せばアレに消えたのかとわかり安堵した。神の名の下に宴会費を払ってしまうところであった。毎年この時期はこうした事が起きる。天気のせいだ、観光客がいないからだ、今年は酷いとすべてを何かの所為にするしか出来ない。愚か者の村に住んで3年、この村の者は明日に生きない。この村の者は未来を見れない。この村の者は今日にしか生きていけないのだとわかる。この村の者に未来を語ってはいけない。夢を見させてはいけない。甘えさせてはいけない。ぬかるみの中で暮らすことにのみ価値のある者なのだと教え諭さなくてはいけない。世界にはこのような者達が必要なのだとわかった。善き社会の一員とはなにか。ここにはここのやり方があり、東の国から来た者がとやかく言うのは間違っている。馴染めないやり方ではあるけれど眺めているだけであれば害にはならない。

こんな事を書いている間にも隣村からニュース。夜8時以降はトゥクトゥクはそのまた隣村には行かない。なぜかというと山賊が出すぎて危なくて通れないと書いてあった。観光にやってきたカメラマンは機材を奪われ、その恋人はその場でレイプされ対岸の病院へ運ばれた。どうにもいけないねぇ。

日々雑思 宿を続けるか

町に住むタカさんから電話がかかってきた。年金の事が知りたい。知っているかと聞く。確かに知ってはいるけれどまだまだ遠い先の話しで果たしてそれまで生きているかさえ定かでない。恐らくよほど困ってのことなのだろうと話を聞く。タカさんによれば日本に電話をしたがたらい回しにされてラチがあかない。年金の手続きに日本に帰ってもいいが、沢山お金を使って飛行機で帰っても少ししかもらえないのではないか。どうしたらもらえるお金が幾らかわかるのだ。

僕らはまだ国民番号なるものを付けられてない。決まる前に日本を出てしまっているので頭数に入れてもらえていない。それがないとなんにも出来ないので途方にくれてしまっているタカさんがかわいそうになった。問い合わせの方法を教えてあげた。

タカさんは、最近どうだと聞く。全然ですゼロですと答える。タカさんが言うにはどこも居ない。メキシコも南米も居ないらしい。どこもたいへんだと電話の向こうでため息をついている。実は日本人の旅行者は沢山いるのだけれど日本人宿には泊まらなくなっているのだと言いかけてやめた。英語が出来て、ブッキングサイトでいい宿がすぐに予約出来る人はそっちに行くのだ。以前ほど危なくなくなった中南米では宿の存在意義が変わったのだ。それはいいことだと思う。気がつけば年金の話に巻き込まれる歳になっていた。たまにはタカさんの所にお邪魔して、トクさんと3人で話しをするのもいいかもしれない。

「ここ・・・」と言ったきり黙り込んでしまった若者。やっぱりなと思いつつ部屋に案内する。最近は一目でこの宿に合わないなとわかるようになってきた。リュックも下ろさずキョロキョロとして「工事中ですか?」と言われてしまう。否定するのもかわいそうなので「まぁ、そんなようなものです」と答える。やはり日本から直接くる人には無理なんだなぁと改めて思った。果たしてリュックを下すことなく若者は去った。少し残念な気持ちとなる。セシーは案の定「オマエなにか言ったのだろう」と怒っている。事の顛末を説明するとちょっと悲しそうな顔になった。仕方のない事なのだと慰める。自分の給料もさることながら最近は客が来てくれる事を望み、2人でメニュー開発に勤しんで来ただけに残念であったのであろう。2人で用意してあった食材を使って朝食とした。

幻覚キノコを用意してくれと言った客と村で会う。やはり彼もこの宿ではなく他が良かったのだ。乾燥したキノコをセシーに食べるかと冗談を言いながら捨てる。けっして安くはないが諦める。そうした事を知っているだけにセシーも言いたいことがあるようだ。口を開きかけると僕が制してしまうので不満があるのだろう。

こうした事が続くと流石に心を削り取られていくような気持ちになるが、それはこちらが勝手に感じている事であって客には関係ない。客からすればこんな小汚い宿に金を払うのもいやであろうことも理解できる。流石にこれだけダメだとなると宿として受け入れてもらえないのだと諦める他ない。帰ることも考えるかと弱気の虫が起き出すが、ここで野垂れ死ぬのも悪くないと自らに諭す。セシーに心配するな、庭には白菜も大根もある。アレは美味いんだ、2人で全部食べてしまえるではないかと言うと笑っていた。

用意した食材があるので明日の朝食はご馳走にしてやることに決めた。あと数人宿に泊まりたいと言ってくれている客がいる。彼等を泊めたら考えよう。それにしてもなにが気にくわないのであろう。それがわからない。見てくれの悪いオッサンに工事現場と思われてしまう宿。以前言われたように目を見られただけでこちらの素性を見透かせれてしまっているのであろうか。おそるべき洞察力を持つ若者には太刀打ちできるものではない。事前にここはそういう宿ですよと教えてあげられたらと思うのだけれど。そうであっても喜んでくれる客がいることは嬉しくもあり、もう少しもう少しと思える励みにもなる。ありがたいことだ。

庭の枇杷の木に実がなりだした。掃除中に気がついたセシーは物欲しそうな顔で見ているが遠くて届かない。「ヒデーキ、ヒデーキ、見てみろニスペロ(枇杷のこと)がなってる」「まだ、少し早いだろ」「でも、見ろ、あそこのはもう食べられる」「わかった、わかった」柄の先に網が付いている長い棒を持ってきて枇杷をとっていると、そばにやってきて目をキラキラさせている。まるで子供のようだ。網に入らずに落ちてきた実を地面から拾うとそそくさとキッチンで洗って食べている。よほど好きなのだ。残りを持って行ってやる。「お前掃除がまだだろう、終わってからにしろ」たしなめる「あっそうだった」とスタスタと2階に上がって行った。「昨日泊まらなかった部屋をちゃんと片付けておけよー」「他の客は来ないのか」「来ない」「ホッ!わかった」

庭にはアボガド、枇杷、パパイヤ、パカヤが実り、菜園にはハーブ、野菜が育っている。そのうちコーヒーも実るだろう。自然の恵みを甘受出来るここでの暮らしは豊かだ。今年はドラゴンフルーツの種も蒔いてみた。ニワトリを飼ってみたい気もする。日本ではすっかり遠のいてしまった食の根源に触れる暮らしが好きだ。不便ではあるけれどそれが暮らしを豊かにしてくれる。心を豊かにしてくれる。アホだけど自然に寄り添う暮らしが好きなグアテマラ娘と過ごすのも悪くはなさそうだ。

日々雑思 語学学習に引退はあるのか

語学学習はスポーツのようなものだと常々思う。やり方を教わって、繰り返し練習しなければ本番で活躍できない。野球に例えれば素振りとキャッチボールを毎日、ひたすらやって、ようやく試合に臨めるような感じ。先生に教わる時間も大切だけど、もっと大切なのは練習の時間。だから僕は練習で間違いを恐れない。間違えなければどこが間違ったのかがわからないから。上手くいかなかった事でやるべきことが見えてくるのは語学も同じ。とにかく村の人に使ってみる。おーまた変なこと覚えてきたか言ってみろといった感じで聞いてくれる。大概、あ〜残念という顔をされて終了。いいかそれはこう言うのだと直される。それでもたまに、おっそんなのいつ覚えたと言われるとしてやった感が溢れてくる。パチンコで大勝ちしたような気分になる。

最近、思うところがあってボキャブラリーを増やすことに取り組んでいる。常にノートにメモを取って単語を書きとめる。ニュースの音読と単語の意味調べ。ところがなかなか覚えられない。英語で書かれた辞書はすんなり読めるのに、スペイン語はまだ引っかかってばかり。西西辞書も持っていて併用して使っているのだけれど、こちらは一つの単語の意味を調べるのに何回も辞書を引きなおさなくてはならない。ほとんどが一度は見た単語なんだけど未だに理解出来ていない単語のなんと多いこと。英語の時もそうだったと言い聞かせ我慢の日が続く。

スポーツの世界では引退がある。体力の限界、怪我などの理由である程度の年齢で一線を退かなければならなくなる。言語学習がスポーツと同じだとしたら。そういえば覚えが悪くなった。目が霞む。脳の限界?まさか引退?そんなことは無いと鼓舞しているのだけれど一度生まれた疑念を払拭出来ない。

確かにスペイン語自体は伸びていることは感じるのだけれど違和感がひどくて困る。去年から始めたZUMBA。日頃の運動不足の解消に大いに役立っている。ところが周りはケロリと踊っているのにこちらはかなりキツイ。1時間もやるとへばってしまう。そう年齢から言えばかなり動けるのだと思うけれど、昔と、比べると明らかに体力がなくなっている。少し体重を落とすと随分と楽になった。既に筋肉をつけることがプラスに働かなくなっていて、それよりも体重を軽くすることの方が有利になったことに気がついた。

もしかしてスペイン語も同じなのかと思い、以前のようにシャカリキになる事をやめる。会話の中から覚えるようなやり方に切り替える。詰め込むトレーニングのやり方を変える。負荷がかからない勉強は楽しい。新しい事が出来るようになるには少し時間がかかるけれど、これまで貯めた貯金を切り崩している感覚はない。そもそも僕のスペイン語に貯金などないのだから新しいやり方を模索していくしかない。重たいバーベルを軽くして負荷を下げる。でも総仕事量を等しくするために回数をこなすことにした。100キロのバーベルを1回ではなく10キロの物を10回といった感じ。1回で覚えられなければ10回で覚えようと考え方を切り替えた。以前のようにスッキリ感はなくなって霞みがかったモヤモヤはつきまとうけれど、新しい感覚は悪くない。

引退したスポーツ選手にしても競うことが難しくなるだけで常人と比べれば一目瞭然であるのと一緒で、言語学習においてもこれまでやってきたことすべてが不意になった訳ではないのだと言い聞かせる。実際この国で暮らしていて困っていないのだからまだ伸びる余地はあるのだ。初めてスペイン語圏に脚を踏み入れた時の困惑を思い返せば随分と良くなってきている。競技生活に脚を踏み入れられる程のレベルを僕のスペイン語は持っていないのだし、引退などというのはおかしいのだ。願わくばセミプロ若しくは玄人はだしといったレベルになりたいものだ。当座の目標は5000語。恐らくあと2000語も覚えたら随分と楽になりそうな気がする。

女中のセシーに言わせると僕のスペイン語には教養がないらしい。同じ言葉を何回も使うのはバカっぽく聞こえると言っている。もっと違う言い回しをしないといけない、聞いていて美しいと思われるような話し方をしろと怒られる。大の大人が少ない語呂でしか話せないのだから、確かにバカっぽく見えてしまうのだ。せめて人並みにならなくてはと思う。

日々雑思 旅先で死んではいけない

事故で友人がなくなった。旅にはトラブルはつきものだから受け入れる以外に出来ることはない。でもなぜそれが自分ではなかったのかと感じる。若く、将来があり、必要としてされている者が死に、役に立たない者ばかりが生きながらえる理不尽。「おはようヒデキ、どうした、まぁここに座れ」チョナがいつものように声をかける。「お前に悪い知らせだ、お前の生徒が死んだ」「っどうして」「事後だ」「いつだ」「今日だ」目頭が熱くなる。チョナも同じ。「いい若者だった。何故神は善き者から殺すのだ。カフェはまだ7つだった、彼もまだ若い。何故自分ではないのだ。神を信じないオレでいいだろうに。地獄に行くこともかまわない。ウソつきで暴力も使う。黒き心を持つ自分でないのだろう、神はクソだな」「ヒデキ、こころを強く持て。強くならないとダメだ」「あーわかってる。大丈夫だ心配するな。俺の心は強い。誰よりも強い。ただ最近感情が邪魔をする。優しい気持ちを取り戻したいなどと思わなければよかった。それだけだ。また来る」チョナがなにかを言っているがそのまま去る。事故だとわかっていても、憎しみがフツフツと湧いてくる。それが自身に向いたものなのかがわからない。理不尽なことが多すぎる。喜怒哀楽は生きる邪魔にしかならない。日本で暮らしていれば知り合うことのなかった人々。大半の者が自分より若く将来に向けて生きる喜びを持っていた。宿などやらなければよかった。客と話などするべきではなかった。彼等の思いなど聞かなければよかった。

宿のベルが鳴る。出ると2人の若者が立っている。すぐにピンとくる。聖書を片手ににこやかに笑っている。聖書の一文を見せ、苦しみから救われるためにと穏やかな声で偉そうに説教を垂れる。貴方はどう考えますか?と聞くので「オレはそれを苦しみだと思っていない。当たり前だ」と答える。少し驚いているので「ここでは普通のことであろうが、恐喝、盗み、ウソ、殺しお前らグアテマラ人には日常だろ、それが神の意志であるなら喜べ。オレには関係ない、ここに以前来た女もお前らの仲間だった。「神がどうとか」と言っていたがグアテマラ人に殴り殺されたよ」「彼女達は残念だった」「そうだな。聖書のことは知っている。キリスト教でなくとも知っている者もいるのだ、オレに助けは不要だ、頑張れよ」グアテマラ人がよくする言い負かされた時のえへら笑。この顔を見るのが大嫌いだ。意気地のない安物のプライドにすがって逃げるしか能の無い愚か者。彼等に罪はない。知っている。きっと善き心を持っているのであろう。ただ自分は得体の知れない偶像を信じるほど弱くない。空に向かって叶いもしない願い事をほざく暇があれば自らの手で火の粉を払うことを選ぶのみ。

バイク旅の知人の友人が行方不明になる。友人はyoutubeでビデオを作り公開した。英語とスペイン語で撮られたそのビデオには友人の思いが詰まっていた。決して上手くはないスペイン語であっても彼の思いが伝わる。旅をしていると年に1回や2回はこうしたニュースに触れることになる。バイカー、チャリダーという愛称で呼ばれる旅人はバックパッカーからも特別な目で見られる存在。その旅の過酷さを知っていればこそ。無謀と言われることもあるやもしれぬけど、彼等の旅力は相当なもの。無補給路を何百キロも行かねばならない時の勇気、故障などのトラブルに対応する力、迷った時の決断力を後押しするのは積み上げてきた経験。ロスト、ガス欠、水キレ、野宿、天災、疾病、犯罪こうした災いに一人で向かい合う。時に経験値を超えたトラブルに見舞われた時、旅の力が試される。ただ運に任せるのではなくギリギリまで切り抜ける努力を続ける。だからこそなにか起きた時の仲間を救うためのアクションははやく強固、それは国籍や人種、付き合った時間などまったく関係ない。世界のどこで起きようと出来ることを各々が考え行動に移す。旅人が置かれている状況が理解できればこその思い。行動した者だけが知る思いやり。その思いが届いてくれることを信じるのみ。

旅先で命を落としてはいけない

神に選ばれてはいけない

他人に安全を託してはいけない

恐れてはいけない

侮ってはいけない

全ての知恵と経験を振り絞って

最後まで諦めない

死んではいけない

どんなに傷ついても岸にたどり着き

喜びの家にあって家族との再会を果たさなければいけない

全ての旅人の安全を願って

日々雑思 雨のち晴れ、そして雨、でも雨季だから

夜遅くになり雨が降る。テラスで勉強していると、遠くから雨音が聞こえて来て、あっという間に辺りが真っ白になった。夜なのに白く見えるのが不思議だ。慌てて片付けて部屋に入る。バラバラと雨がトタンを叩く。この雨音が好きだ。何も聞こえない程の大きな音なのに何故か安心してすぐに寝てしまう。翌朝、庭はシットリと湿り気を帯びて野菜は葉の先までピンと張っている。葉に付いたガラス玉の様な水滴がコロンと転がって落ちると跡形もなく砕け、小さなシミとなった。

珍しく客が来た。旅する者が来たのは数ヶ月ぶりか。ここがいいと聞いてきたと言う。バスに帽子を忘れてしまったと嘆いているので、知り合いに頼み、バスの運転手に聞いてもらう。掃除夫に聞いてみると運転手から返事があった。客に伝えると驚いている。小さな村で地元の者と付き合いがあれば造作もない事。そんな事に驚き、感謝されるとは思いもしなかった。客はなくても構わない、納得ができたと嬉々としている。また問い合わせの際、バスの案内をしてやったことに助かったと言っている。現地で聞いたらないと言われたと言う。こんな小さな村であっても人は住んでいるのだからバスくらいはあるのだ。

この事がどうにも気になった。ネットにはない情報確かにコレはないなと思い笑ってしまう。コレは親切というものであって情報ではない。困っている者が居て、自分が出来ること、知っていることをやっただけ。運転手を知っている者を知らなければ出来ないし、バス時刻も変わる。こんな事はウェブサイトに載せる様な事ではない。そのとき、その刹那にのみ提供出来る事に過ぎない。先日泊まっていった客もそうであった。ちょうどタイムリーな情報があったので教えてあげるといたく喜んでいた。運が良かったということだけ。そんな事を情報で書いても数日もすればそれは役に立たなくなってしまう。いわばナマモノ。人に尋ねた者だけが得られる情報でしかなく、当然、こちらも聞かれなければ答えることもない。人様の旅に余計な口を挟む野暮をするほど愚かでもないつもりだけど。ネットにはない情報、何を求められているのかが形になったように思えた。果たして、コロンと転がり落ちた水滴のように心に小さなシミが出来た。

昨夜から続いていた雨もあがった3時半、朝早く客が発つ。出発間際に手紙をいただいた。こうして手紙をもらうのは久しぶり。道中の無事を祈るのみ。持たせた弁当は喜んでもらえるであろうか。片付けを終え部屋に戻り手紙を開く。

宿を始めて以来変わらぬ姿勢を通してきたつもり。喜ぶ客、喜ばない客がいた。それは仕方のないこと。それでも喜んでもらえた事をこうして文字で残してもらえる事が嬉しい。

やってきた事はおそらく間違えてはいないのであろう。ネガティブな声に足を取られ粘りつくような泥沼から抜け出せずにもがいていたが、やっと抜け出せた気がした。ベッドに横たわるがそれ以上寝ることも出来ず、何度か手紙を読み返した。

明るくなり、庭に出る。先日蒔いた芽を出さなかった場所に再び種を蒔いた。雨に濡れた土はねっとりとしていて柔らかった。今度は芽を出してくれるであろうか。たかが野菜の種ではあるけど、明日に向かって希望の種を蒔いている気になった。

雨はあがった。

とは書いたけれど今日来る予定の客は2人ともドタキャンされてしまった。うまくいくかと思うと必ず新たな試練が待ち構えている。それがまたいい。セシーにまたなにかしたのだろうと怒られてしまうだろう。迎える準備で食材を買い、足りなくなった調味料を頼んだ。たまに見かける予約して来ない客の善し悪しについてニュースがあるが、そうしたことが今の日本では当然のことなのだろう。そうしたことに順応していくよりない。K國とのニュースと同じ。ただ、ここではその相手が日本人であるというだけ。粛々とやるしかない。信頼のない相手であってもやるべきことをするのみ。

また女中とあーでもないこーでもないと試行錯誤を重ねよう。出来ることはやっている。今月もコーヒーを独り占めできるのが救いだ。

夕方になり雨が降りだす。

日々雑思 餃子とニキビ

先月は客の見込みもなく、女中のセシーに暇を言いつけたが、メガネを買ってくれたので、働く、金はいらないと言って毎日よく来てくれた。スペイン語の勉強も手伝ってくれ、月末の急な来客にも対応してくれた。そんな彼女の望みと悩みにおっさんが応えてやりたくなったが、書いていて気持ちが悪くなった。

なぜかはわからない。女中のセシーは餃子が大好き。餃子のためなら教会を休むこともあるほど、餃子には信仰を超える魅力があるらしい。「今日は餃子だ」「ホントか、わたしにも残しておいてくれ」「明日の朝食にしてやる」「う〜ん」と身をくねらせている。翌朝、約束通り餃子となる。テキパキと食事の支度にかかる。皮の作り方、具の包み方は既に知っているので焼き方を教えてやる。よく焼けている。タレも自分で作らせる。

食べるごとに口元がニヤケ、う〜んう〜んと唸っていて気持ち悪い。こちらが笑うと「なにを笑っているのだ」と言う。「お前、気持ち悪いぞ、ニヤニヤしながら唸りながら食べてるし」「ホントかアハハ、ヒデキも食べろ」「お前にやる、好きなだけ食べろ」「そうか、タレをもう少し作ってもいいか」「好きなだけ作れ」「なんでヒデキはタレを少ししかつけないのだ、こんなに美味しいのに」「アハハそうか、それは何よりだ」15個も食べたであろうか、さすがに苦しくなったのか帯を緩めている。それでも最後まで残さずペロリと平らげでしまった。「お前の舌は中華味がいいのだな、こんど隣村の中華屋に連れて行ってやる、そこで春巻きを食べさせてやる」「うまいのか」「あー多分な、あそこのは美味い」。サラを洗っている時、オデコにニキビが出来ている事に気がついた。「お前の、オデコ」「そうなんだよヒデキ、とっても醜くて嫌だ」「馬鹿喰いばかりしているからそうなるのだ」「これは食べ過ぎると出来るのか」「若者は皆できる」「でもわたしは出来たことがない」こちらの若者の肌はとでもキレイで客もニキビがないと驚いていることがある。セシーもキレイな肌をしていたが、オデコにポコポコと出来て痛がゆそう。「ちゃんと洗っているのか」「洗ってる、でも顔用の石けんがあるらしいが高いから買えない、友達は買った、どうすればいい」「待っていろ」。確か洗顔石けんがあったはずだと思い部屋に行く。年頃の娘では気になるのであろう。化粧水とクリームを持ってもどる。「なんだそれは、痛いのは嫌だ」「痛くはない、ほら石けんだ」「これは顔用か」「そうだ」「どこで買ったのだ」「ニューヨークだ」「アメリカかすごい、これで洗うとキレイになるのか」「そうだ洗ったあとコレを使え、高いんだぞ、客が困った時にくれてやるためにあるのだ、お前にぜんぶやるのではない、全部使うなよ」「なんだ、全部くれるのではないのかケチだな」「なんでおまえにぜんぶやらなくてはいけないのだ、宿の女中が醜くては客が寄り付かないであろう、だからだ」「アハハそうか」「イヒヒそうだ」「コレで直接こするのか」「ハッ?違う、泡だててだな」なんでこんなことをおっさんが説明してやらなければならないのだと思いながら、しっかりとクリーム状の泡を作り、肌に手が当たらないように泡でクルクルと丁寧に優しく洗え、泡が汚れを落としてくれる。あまり長い時間はかえってよくない、油分は大切だとオデコに泡を乗せてやる。ゴシゴシ洗いはじめるので慌てて「違う、泡だけをオデコの上でまぜろ」とやってやる。めずらしくジッとしている。「わかったか」「わかった、なぜ知っている」「日本の女は、こうした事に命をかけていて、お前の教会のように大切な行事なのだ、顔がキレイにならなければ仕事にも行かないし、彼氏とのデートですら遅れて行くのだ」「ふーん」「洗い終えたらコレをつけろ、コットンに含ませてやれ、つぎにコレだ、少しベタつくがすぐに馴染む、それと今日はコレを使え、なんといったかな..パックだ。コレをそっと広げてマスクのように顔にのせろ。30分くらいかな、わかったか」「わかった、とーてもありがとう。キレイにならなかったらどうする、ヒデキのミスだ」「アハハ、そうだな、馬鹿喰いばかりしていてはムリだな。こうしてこのリキッドを付けるのだ、ちゃんとわかったのか」「ヒデキはオンナにこうしてやるのか」「やらない、お前はバカだからおしえてやったのだ、さあ、終わった。帰れ。それからそれはお前にやったのではない。ちゃんと返せよ、中華屋に行った時向こうの村にある土産物屋に連れていってやる。外人が好きな天然成分の石けんがあるはずだ、買ってやる」「ホントかグラーシアス」「明日は遅刻するなよ今日は20分もしやがって」「ウソだ15分だ、良い午後をヒデキ」「あーお前もな」

娘を持ったことはことはないが、そんな気持ちになった。やはり歳頃の娘が思うことは万国共通なのであろう。とりわけこの宿は日本人ばかり、彼女達を見て、同じ女として羨ましくも感じているのかもしれない。掃除をしている間、せっせと顔を作っているのを見ながら自分もと思うのであろうか。子供のように夢中で餃子を食べる姿が微笑ましくもあり、ニキビを気にする様子も可愛らしくもあった。たまにはこうした事があっても彼女の神も怒らないであろう。

ここのところ客もくるようになり、よく働くセシーには感謝している。もう少しよくしてやりたいが、調子に乗らせると手がつけられないし、態度を変えるのも癪に触る。客がもう少しくるようであれば、穴の空いた靴を取り替えてやろうと思う。