日別アーカイブ: 2019/06/23

日々雑思 不良品の願い

誰も来ない宿を毎日掃除させるのはなんだかかわいそうなので庭の草むしりとした。石垣のツタを丁寧に刈る。セシーは雑草を抜いている。2時間程でキレイになった。畑のバジルがわっさりと出来たので、セシーがバジルペーストを作ろうと言う。急に言われてどうしたのだ?と驚いた。彼女がパスタを茹で、出来立てのペーストを絡めた。ここで働き出してから随分と料理の腕を上げてきた。もうなんの遜色もない。

「写真を撮るからキレイに盛り付けろ」「大丈夫だ、今日はこの皿を使うがいいか」考えながら盛り付けていてホーと感心した。「出来た。どうだ?ヒデキ」「マソメノス(まぁまぁだ)」と言うと少しふくれたがわかってもいるようで何も言わない。

最近は毎日のように予約が来たかと切り出してくる。やはり心配をかけている。「ない」と一言だけで終わる。「断ってるんじゃないのか」「いや」「なんで来ないのだ」「この宿はダメかもしれんな、来月は倒産だハハハ、倒産のquiebrabancarrotaとはどう違うんだ」「同じだ、どっちも使える。倒産するのか?」「わからんな、心配するな、今月も来月も給料は払えるよ、多分」

こちらが食べているのを上目遣いで見ている。「ウマイ、いい出来だ。とても美味しいよ」「ありがとう、でもこのパスタ麺は美味しくないでしょ、沢山茹でた、時間もかけたのに良くない」「いつものがなかったからな、ごちそうさまセシー」「今日は何するのだ?」「なにもしない」「ぜんぜん出てないのか?メルカドにも行ってないだろ、食べてるのか」「出てない。食べる必要がない」「グラシエラは来るのか?」「来ない。レッスンを持っている。大丈夫だセシー心配するな。もう帰れ。良い週末を」「あなたも」

彼女なりに心配してくれているのであろう。ありがたい。心配するなとしか言えない自分が情けない。彼女が去った後、いかんなぁコレではと反省する。それはスペイン語ではなく、こんな時どう言ったらいいのかがわからない。昔からそうだった。こればかりは世代とかではなく、自身の曲がった性根なのだと思う。

有名芸能人の言葉を借りれば自分は何万個に一個の不良品。いろいろ物議はあるが不良品は必ずある。言葉が強ければリテールアウトレット(訳あり)でもいい。製品にも、生き物にも不良品が発生しない物を僕は知らない。世に出せない物だからこそ世間様に迷惑をかけないように、訳ありだと悟られないようにそっとしておくか、不良部品を交換するように心を改めなければいけない。

よく人から完璧主義だと言われる。不良が故に良に憧れるからこそ、心配や助けを求めることはやってはいけない。良品は人に心配をかけない。良品は助けを必要としない。助けや心配は人として良品であるからこそ出来るコミュニケーションの手段。不良品は人を不快にさせる。不良品は人を煩わせてしまう。不意に心配されると戸惑ってしまって、不良品であることを悟られてしまったのではないか、欠けを見られてしまったのではないかと不安にかられて馬鹿正直に答えることしか出来ない。

激昂する高齢者などが取り上げられることがあるが経年劣化による劣りを隠そうとしているのではないか。まだ使える。まだ品質を保っているのだと必死に訴えているようにも見える。たけきものも遂にはほろびぬ。良品であったためしがない者はそれすらない。であるからこそ、相手の心をキチンとくみ取りましたという言葉を使ってみたい。たとえ良品の人がさりげなく使うように、そういった人達の心の動きが理解出来ないとしてもセシーの優しさに一度くらいは応えてやりたい。

そういう風に不良品は思うのです。