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日々雑思 宿からのお知らせです

遂に客が尽き果てた。女中にも来なくても良いと伝える。

「いつまでだ」「わからない1週間かもしれない。2ヶ月か3ヶ月かもっと」「私の仕事がなくなって稼げなくなる」「心配するな金はやる、月末に来い」「それでは私の気分が悪い」「じゃあこうしよう、お前の仕事は来ないことだ」「何かあれば電話してくれれば直ぐに来る」「必要ない電話はしない」「どうしてだなぜ休むのだ」「来たい客がいないからだ、来たとしてもお前に電話する必要がない。自分で出来る。来なくても金がタダでもらえるのだから好都合だろう。それに前にも言っただろう、お前の妹との約束を守っているだけだ」珍しく悲しそうな、心配そうな顔をしている。最近はコミュニケーションが取れているだけに仕事が楽しいのであろう。目が悪かったので眼鏡を買ってやったことに恩義を感じてもいるらしい。客がいなければ給料はいらないと言っていた。来ればこちらもそれなりに楽しいのだけれどあまり心配させるのも可哀想と言うものだ。女中とは距離を置いておきたいという思いの方が勝った。根っからのへそ曲がりは治しようがない。

今年の宿の雰囲気はとても良かった。日本人の客には問い合わせの時点でこれまで言われた苦情をすべて正直に書いて返事を出した。正直にやっていく、丁寧にやっていくことはこの宿を始める時に自分で決めたことだから。するとほとんどの客はそれ以上問い合わせをして来なくなった。たとえ一部の客が言ったことであっても言われたことは事実。それは客の正直な意見なのだ。意見を伝えて客の判断に任せる。それだけしかない。ミスマッチはなくなった。せっかくの問い合わせなのに気分を害してしまう事は申し訳ないけど、今のところ他に防ぐ手立てが見つからない。大切な旅行に苦い思い出を作ってしまうようなことは避けたい。過度な期待を持たれて嫌な思いをさせてしまうより避けられた方がはるかにいい。

この2カ月ほど客は2人しかなく、まったく問い合わせもなくなった。情報がすべての旅人相手ではこれだけネガティブな情報を宿から直接聞けばもっともな話し。いい宿だと言ってくれる客もいた。ただそうした人達にはこの宿に泊まったことは他言無用をお願いした。良かったと言う思い出は人を惑わし勘違いをひき起こす事にもなってしまうから。

ジレンマではあるけれど期待せずに来る客を最大限もてなしている方が性に合っている。ただ甲斐性がないのだ。この宿はいいですよと言えるだけの自信がない。自信のなさが客を遠ざける。

そうであっても、はじめての客商売は楽しい。難しいこともたくさんあるけれどそれも含めて楽しめている。グアテマラという日本とは違う環境にあって日本の感覚をそのまま持ち込んでくる客の感覚がわからないという思いがある。と同時に慣れないスペイン語圏で日本語が通じる場所で、ふとした拍子に漏れてしまう、思いの外強い言葉が出てしまうことも理解できる。でもそれが残念でもあり、悔しくもある。持って生まれた性格なのか負けず嫌い。

様々な意見があって当然、なにがいいとかどっちが正しいとかは考えても仕方のないこと。あーそうなんだと受け流しておくことも時には大切。ネガティブな意見があったからこそ今の清潔感が生まれ、料理の腕も伸びた。だからこそ出来ないと言いたくない。まだ工夫の余地はある。

来ることのない客を悶々と待つのはよくないし、日々の雑多な暮らしを楽んだほうが豊かに生きることが出来そうだ。休んでいる間にスペイン語をもう少し勉強したい。英語もやりたい。ジムに通って身体を動かしたい。湖で釣りもやりたい。頂戴したカップ麺や缶詰を独り占めで食べたい。夜に出かけて屋台で食べたい。客を気にすることなくハンモックで寝てみたい。時間や水を気にすることなく贅沢にドラム缶風呂にのんびりと浸かりたい。手持ちの映画を大音量で観たい。やりたい事は山ほどあって、事欠くことはないだろう。

気がすむまで気ままな日々を過ごしてみよう。日々の暮らしを楽しみながらもう少し宿の質を高めたい。日本人の僕が営んでいるのに同じ日本人から汚い、他で食うよりマシだと言われないようにしたい。自信を持ってこの宿はいいですよと言えるようにしたいものだ。

宿は節約のために貯水を減らし、通常備蓄の食品補充をストップしました。保安のため門、扉も閉めてあります。全部屋において除菌防虫作業を行います。寝具も一斉に洗濯して保全してしまうため急にお越し頂いても対応することができません。

日々雑思 単調な日々にも 

竹垣を編む。3階の竹垣が経年劣化で紐が切れてぶらついてしまっている。ここでの暮らしは常に何かの修理に追われていて、毎日やる事が尽きない。頼んだ仕事が雑、クオリティが低いのが原因。自然環境なら日本の方が断然厳しい。冬の寒さ、台風、夏の暑さ、季節が変わるということは厳しさの表れでもあるのか。それを補って余りある日本の技術や製品はやはり素晴らしい。

針金を買ってきて一本一本編み上げていく。力もいるし、長い針金は扱いが悪い。客に見える場所なので手が抜けない。見てくれも悪くないように根気よく続ける。1日で出来なくてもいい。ここには時間がある。急かされない。身の丈にあった過ごし方でいい。

ズンバで痛めた肩はようやっと良くなってきた。どうやら50肩ではなさそうで、ホッとした途端に自信めいたものが湧き出した。背中を鏡で見てちょっとニンマリした。のっぺりとした肉の塊だったのがいつのまにかボコボコと減り張りのある背中に変わっている。腹から腰回りにどっしりと居座っていたブヨブヨがスッキリしている。継続は力なりと呟いた。踊りがこんなに効果があるとなぜもっと早くに気がつかなかったのか。まだまだ知らない事がたくさんあることは励みになる。

朝食を食べているときセシーがなぜヒデキは太らないのだと聞いてきた。確かに最近は痩せる一方で太る事がない。たいした仕事もなく、週3回の踊りが唯一の運動。日本にいるときに食べていたものは気を使ってはいても相当量だったのだろう。酒も飲んだ。ここに住み着いてからまったく酒を飲まなくなった。夜間病院のないこの村では何かあれば遠くまで客を連れていかなければならない。酔っ払っていてはそれもおぼつかないので飲むことをやめた。日によくあたり肌をさらす。夜の冷えにもすっかり慣れて寒さにも肌をさらす。色が黒くなりグアテマラ人と大差がない。セシーが「ワタシはドウダ」と変なことを言う。ジッと見て「イマクライデ チョウドヨイノデハナイカ」と答えると安心したような顔になりニッコリと笑った。少しポッチャリとした体型はここ特有。森から出てきたような顔ではあるけれど愛嬌がある。あと数年もすれば立派な貫禄がつくのであろう。可笑しくなって笑っていると怒った顔になり睨まれてしまった。

カフェと散歩に出かける。湖に向かうとわかるとご機嫌になりサッサと先に進んで行ってしまう。けれど角角では立ち止まってこちらを振り返っている。草むらでウンコを済ませると身軽になるのか決まって勢いよく走り回る。湖に着くと真っ直ぐに水に入って泳いでいる。ブフブフと鼻を鳴らして気持ちよさそうに泳ぐのを岸に立って見ているとこちらに戻ってきて足元でブルブルと体を震わせるのでこちらまでビショビショになってしまう。砂浜に体をこすりつけ砂だらけになって益々テンションが上がるのか制御不能となってしまった。1日中家に居て、唯一の楽しみであろう散歩をどれほど待っているのだろうか。毎回やる事は同じで飽きもしない。それだけに小一時間の楽しみを奪ってしまうことは出来ないなぁと毎回思う。

単調に思える日々の暮らしは実はとても贅沢で、思いの外変化もある。1人作業をする時間がいい。女中とのたわいのない会話も楽しい。地元の女衆に混じって踊り、汗を流す。カフェと散歩する穏やかな時間。どれもがとても贅沢なことに気がついた。自分の中にある日本での暮らしとは比べようもないのだけれど、今日の心配事もなく、将来に対する不安もない暮らしが出来るようになっている自分がいた。もう少しこの暮らしを続けるのも悪くなさそうだ。

日々雑思 手を使う 

食堂にかかっていた仕切り用のカーテンを取り替えた。女中のセシーがもう使わないグアテマラの民族衣装のスカートをくれた。糸をほどき、縫い直して針金を使い吊るす。思っていたより見栄えがして、とても良くなった。

ピザ窯とバーベキュー台の灰を掃除して、コンポストで作った土に混ぜる。土に混ぜるとスコップを入れる感触が軽くなってこちらの心も軽くなる。キレイになるのも気持ちがいいが、木や炭を最後まで使い切ることが出来るのがいい。

生ゴミはすべてコンポストへ入れる。すべて堆肥となり庭の土となった。黒々とした土は水を蓄え、虫を呼び、ミミズが来る。彼らが土に命を守る与える。野菜クズまで使いきる。決して少なくない量ではあるのにキチンと循環して、再び収穫出来た野菜が食卓に並ぶ。香りが立っている。トマトはトマトの味がする。ニラ、大根、豆、香菜すべての味が記憶として残った。

火山の麓にあるので、庭には石がゴロゴロと埋まっている。庭を作った時に途方にくれるほどの石が出た。それらを組み上げ石垣にした。砂利の上に並べ飛び石にした。すべて使いきった。砂利と土はふるいにかけ、砂利は水捌けの必要な場所へ入れた。土は菜園へと使った。

客が置いていった服で貰い手のないものは窓拭きのウエスとなった。文具は自分が使い、食材や薬もまた困った者への助けとなった。湖で拾った軽石でナベやコンロのコゲを落とし、道端で売られているガラクタからアレやコレやを見つけてきてはケーキやオーブン料理に使い客の喜ぶ顔をみる。

出来ないことを言い訳にしない。ないことを嘆かない。無ければ作ればいい。工夫すればいい。既存の概念にとらわれない。いつも目を見開いて目の前にある現実からエキスを抽出して結晶化するだけ。以前、バルサミコ酢をどうしても使いたい料理があった。それが手に入ると思っていなかったので酢、赤ワイン、ウスターソースを混ぜた。それはバルサミコ酢だった。客がバルサミコだと呟いた。騙してしまったような罪悪感、してやったりと思う高揚感がまぜこぜになった。

ここでは、日本とは同じようにはいかない。でも物がないことを楽しめるようになった。辛くはない。金をかけずに手間さえかければいい。こうした知識はすべて日本で手に入れた。小田原の百姓、釣りの師匠、近所のオババが知恵をくれた。畑の土の作り方、ケモノのさばき方、家の修理、薪割り、ここでの生活に必要な知恵はすべて持っている。

ポンプが壊れた時、グアテマラという国を語る時、勉強の仕方、社会との関わり方、教養や知識は学校教育の成果となって現れた。なんのために学んだのか答えはここにあった。

人生の中で得た知識を総動員してここで暮らしている。毎日、あーあの時のことはこの時のためだったんだと合点がいって、すべてが腑に落ちていき、ストンと音がした。先日、不便を楽しまれているようですねとお褒めの言葉をいただいた。僕はそれを不便とは感じていないのかもしれない。手を使うことは楽しい。「手間をかける」「手仕事」「人手をかける」こうした言葉がとても人を惹きつけるのは「手」が入っているからだと思う。コーヒーとオニギリは人が作ってくれたものが圧倒的に美味しい。手の温もりが伝わるから。職人の手により仕上がった物は愛着が湧き、使うほどに凄みを増し、命が宿っているように働いてくれる。人の手はすごい。すべて手がやってくれる。「手を使う」とても大切なことだとこんな国に来て初めて気がついた。

日々雑思 雨季になる

暗くなるとポツリポツリと降り出し、遠くの方からトタンを強く叩く音があっというまに近づいて水浸しとなった。雨季に入る。ようやく庭の水やり作業から解放されホッとする。一気に草木が伸び始め、庭の緑は収拾がつかないほどに伸びてきた。季節の変わり目に庭木の剪定をする事を決めている。今週の初めからコツコツと片付けてきて、大きな袋に3個分のゴミが出た。菜園に新しいタネを蒔く。以前から何度も蒔いてはダメなシソを今回も蒔いた。ニラはふた畝分になるように株分けした。これでいつでも食べることができるようになりそうだ。メキシコから持ってきた一本の苗から随分と増えたものだと関心した。ほかにはオクラ、ごほう、メキシコのヒカマと言うナシのような食感の野菜も蒔く。コンポストで作った堆肥も随分とこなれてきたので拡張した畑に入れていく。土が足りないのであと一年くらいはかかるかもしれないが、ここではこうした時間の過ごし方がいい。ミミズがたくさんいる柔らかな土の匂いが鼻の奥をくすぐった。土をいじっているとなぜか心が落ち着いて、なにも考えることがない。良いことも嫌なこともなく、自分の手から伝わるモコモコとした感触と湿り気がただただ心地良い。少し休憩と思い立ち上がるとクラクラと立ちくらみがした。額ににじんだ汗を拭き、テラスで休む。掘り返した土はひんやりとして心地よいのか犬のカフェが早速陣取ってお腹をペタリとつけている。
玄関先の排水路を整備する。雨季の始まりと終わりに大雨が来るので水捌けを良くしておかないと庭が水浸しとなってしまう。雨どいを掃除してから水路に溜まった土を除ける。今年はレイアウトを変えて上手く水を誘導できるようにした。
仕事に来たセシーが庭草と低木を分けてくれというので株分けしてやった。

このふたつきほど予約もなく客もほとんど来ない。女中のセシーに心配されるほど客が少ない。去年の宿帳を見ると20人程は来ていたが今年はいよいよもっていけない。コレはダメだと早々に見切りをつけてスペイン語の勉強をひたすらやっているのだけれど、こちらもまたいけない。さすがに歳なのかと思いたくもなる。本を読むと辞書を片手にではあるけれどなんとなく読めている。言いたいこともだいぶ言えている。それでも、なにかが心に引っかかってしまって納得がいかない。一言で言い表せば、上達が見えない。文法は頭では理解できているようで、考えればなんとかなる。練習が足りない事も承知。なにせ1日中家に閉じこもっているのだから。朝のいっとき、女中のセシーとの会話が1日の唯一の会話。あとはひたすら黙りこくるしかない。1人で居ることがまったく苦痛にならない事もいけない。口を開くとロクなことにならないことがわかっているだけに厄介なのだ。本を書き写し読む。わからない単語を書き出して調べる。調べたところで使う機会がないので覚えることもままならない。モヤモヤが溜まり余計に話したくなくなる。人の話を聞こうとネットで片端から見ていく。意味を忘れてはいても聞き覚えのある単語がずいぶんとあって、ほーとかうーとか言っているうちに夕方になってしまった。

ZUMBAを踊り始めて半年程になった。こちらは上達著しく、この歳になって踊れるようになるとは思わなかっただけに楽しくて仕方がない。先日、踊っている時に左肩を痛めてしまい、しつこい痛みがなかなか取れない。はて、コレはもしや50肩というやつかと憂鬱な気持ちになる。メキシコで買ってきてもらった薬を塗りつつ踊りは欠かさずに通っている。雨季になり湿気が増し、気温が上がったせいで最近は疲れが早く出てしまう。見渡しても誰一人疲れていない。

ここでも歳のことが頭によぎる。考えてみれば諸先輩方がボヤいていたことがことごとく当てはまり出していることに気がついた。となるとこの先は終点に向かってラストスパートになるのだけれど、もう少し争ってみたい気もする。先日見た日本のニュースで中高年の引きこもりが実は大変な数となっていて孤独死の大半がこうした人達であるように書いてあった。誰も来ない宿であっても掃除は欠かさず、庭の手入れもきちんとしている。生活も規則正しく、荒れ果てるに任せる事もない。ゴミも捨てている。三度の食事もキチンと作る。客が居ないので気持ちも穏やかで、ささくれ立つ事もない。自分の好きなことに打ち込める環境があり、犬も良く懐いている。大丈夫だと1人呟いたところでブルッときた。得体の知れない悪寒が首筋を舐めた。急き立てられるように部屋の片づけをして気持ちを紛らわす。まだ遠くにあるけれどヒタヒタと近づいてくるお迎えの足音が聞こえた気がした。それは旅立ちへの怖さではなく生きている痕跡を残してしまうことへの恐れ。たいして所持品はないが粗相のないように、いつでもいいよう決まって整えておかねばならない。人々の記憶に残らないように、常に忘れ去られた存在であるように、人様に心配をかけぬように心がけねばと戒めた。別に変な願望があるわけでもないが、若い時からこのように考えてきた。それが現実味を帯びる齢となっただけのこと。それは楽しみでもあり、きちんと向き合えるようになりたいとの願望でもある。