日別アーカイブ: 2019/02/09

日々雑思 チョナ 顔から火が出た

グアテマラという沼にはまってしまいもがいているのだけれど、なかなか抜け出すことが出来ずに3年も経ってしまった。どっぷりと生暖かい沼の泥は体にまとわりつき、剥がしても剥がしても執拗に僕の歩みを止めに来る。頭にくることもあるけれど、心地よく自我を削り取られているような、井戸の底から見上げる空が全てであるかのように耳元でささやかれている気持ちになってくる。それでも少しずつ井戸の壁を登っていて、指の爪は剥がれ、掴まった岩が抜けて落ちそうになるのを必死で堪えるような日々が続く。
シャワーが壊れ、排水パイプから漏水し、水がめが割れ、ベッドの脚が取れ、ガスコンロの火がつかなくなる。皿が割れ、鍋が壊れる。全てがまるで仕組まれたように思えてうなだれるしかない。こうした事に抗うように暮らしているうちに驚くほどの生きる力が付いていたことに気がついた。諦める事なく丁寧に暮らす事が身についた。身を粉にして働くということはこのような事であったのかと今更ながらに思うにいたった。
いっときの忙しさが去り、静かな宿に戻った。壊れた物が早く直してくれと亡者のごとく言い寄ってくる。直して直して使い倒す。そうしているうちに静物に命が宿った。自我を宿した静物は最後まで使い倒してくれ、使い物にならなくなるまで働きたいのだと言っているかの様。神が去った地の暗い井戸の底にあっても宿は少しずつ明るさを増してきている。庭に小さな灯が灯り、客がやっと庭に向く様になった。脆弱であったポンプとシャワーの電源を独立させて安定性が増した。壊れかけていたコンロのすべてに火がつく様になった。まともな皿が手に入り、鍋を直した。こんな当たり前の事に2年も費やしてしまったのかと思おうか、2年で出来たと思おうか。宿に命が宿り始めたことは確かで、ある種凄味がではじめた静物達。そして僕もまた宿の一部となっていくのを知っている。

チョナ

チョナはこの村の友人の1人。家庭教師、料理を教えてやっている女、メルカドの洗剤売り、2娘の母。朝7時、メルカドに近い道端に自分の露店を開く。小さな卓とさらに小さな棚を並べて石鹸、洗剤、スポンジなどを広げる。どかりと腰を下ろしていつも何かを食べている。威風堂々した風貌。買い物に行く時は軽く挨拶をする程度だけれど、たまに隣に腰を下ろして世間話をする。
「さっき日本人がお前の家の方に歩いて行ったぞ」
「あぁ、さっきすれ違った。すれちがう女が客になるとは思っていないよ」
「スレチガッタオンナガ、キャクニナルトハオモッテイナカッタだヒデキ、相変わらずだあなぁ」
「ではこれではどうだ、さっきすれ違ったのは客だったのであろうか」
「アレー、ヒデキ、ちゃんと言えてるよ」
「そうか、それは良かった。最近はこんがらがっていて自分が何を言ってるかわからなくなる」
「それならここに来て話せば良い。喋れば覚える」

客が来て石鹸を選び始める。何人もやって来る。みんながチョナの名を呼ぶ。以前、メルカドで物売りをするのはみんなと話せるから楽しいと言っていた。見ていると全部の客が石鹸の匂いを嗅いでいる。聞くと石鹸や洗剤の匂いはとても大切なのだそうだ「黄色は人気だ、青は匂いが少ないから人気がない、黄色がない時は緑がいい」「ならば全部黄色を買えばよかろう。簡単に稼げる」「あはは、そうだな」「このトイレットペーパーは別のか?」「そうだヒデキ、新しいのにした。全部一緒だが値段だけ違う。安い。あっちは14.5でこっちは13.5だ」「それはいいな、でも確かか」「あーぁたしかだよ、メーカーだけだ」「そうか、それならば次回はこれにする。今はゲリの女が泊まっているから、硬いと尻がかぶれて痛かろう、だから悪いのはダメだ」「どうした」「腐ったバナナパンを食ったのだ」「あぁーれー、お前が食わせたのか」「バカを言うな、ひらって食ったのだきっと」「拾ってだ」「拾うだろ」「拾っただ」「もう少しちゃんと覚えろヒデキ」「あははは、そうだな、最近は妄想の話と未来の話を練習しているので益々こんがらがって自分がいったいなにを喋っているのかわからなくなる」「さっき聞いた」「そうか」「そうだ、あははは」「でなんだっけ」「忘れてしまった」「それじゃあとで」「あーヒデキ、あとで」

チョナは優しい。根気よく客のレッスンをやっている。客が喋れないと心が痛むと言う。娘に英語を教え、都会の学校へ行かせるために朝から晩までよく働く。家事もして旦那の面倒もよく見る。ちいさな方の娘がばぁちゃんの家にいくのを嫌がるので自分の時間を削ってあやしてやる。ホームステイを受け入れたいと料理を勉強している。こういう者が報われるようになれば良いのに。

顔から火が出た

世の中には同姓同名の者がいて、時に混乱を招く。それは日本でのことであると高を括っていたのが間違いであった。ひと月ほど前、好青年が宿を訪れ、楽しい話を聞くことが出来た。コーヒーの勉強のためにグアテマラにやってきた彼。熱心にカフェに通い、夢を追いかけていた。僕はとっておきのカフェを教えてあげ、彼も気に入ってくれたと思う。そこは客席が2テーブルしかない小さなカフェで、とても居心地の良い、人には教えたくないお気に入り。そこの豆は特別な製法で作ったものでコーヒーなのにフルーツの香りがして、飲み口がまるでワインのようなアイスコーヒーが飲める。一度、豆を買って自分で淹れてみたがどうにも同じ味にならず諦めていた。彼もまたそれが気に入ったみたいだ。色々と話を聞いているうちにもう一度やってみようとあれこれと試していたところで、もう少しのとこまで近づける事が出来てきた。一度彼に味わってもらいたいと思っていたところだった。

最近来た客は、倅と同い年。なんだか子供を見ているようでじれったい。ついつい親のように接してしまうと彼はプンプン怒っているのだけれど、それもまた懐かしい気分にさせてくれる。なんだかんだと自信を持って言うところが可愛らしくて久しぶりに穏やかな気持ちになった。彼はメキシコに向かい、日本に帰国する予定だと言って発っていった。

数日後、メールが届いた。そこには男の子の名前が書いてあり、1週間ほど戻って来たいと書いてある。僕は驚き、何かあったのではなかろうかと老婆心が出てしまった。そこにはアンティグアにいると書いてある。僕は混乱してなぜアンティグアなんだと思ったけれど、すぐにそこにいろとメールを返した。きっとなにかあったのだ、一緒に出ていった兄貴分のような青年となにかトラブったのか、好きな女の子でも出来て急遽流されるようにアンティグアに行ってしまったのだと思い込んでしまった。メールも乱暴な書き方をしてこちらに戻って来るようなことの無いようにしてしまった。

ところが、僕は大きな勘違いをしていた。それは以前泊まっていた好青年からのメールであった。なぜと思い、名前を見ると同姓同名であった。なんという偶然。不覚にも僕は2人を取り違えていたことに気がついたのは彼の最期のメールを見たあとだった。慌てて詫びのメールを書いたのだけれど後の祭り。その日は思い出すたびに顔から火をふく思いをした。まさか、こんな異国にあって同姓同名の人が泊まるとは。そういえば以前、この宿で会った旅人が偶然にも小学校の同級生であった。そんな事もまた旅の驚きであるのかもしれない。それにしても客商売をしているというのにとんだ失態をしてしまった。少し油断があるのだ。このような宿に来てくれる客であるのだからもっと大切にしなければならないと深く反省した。