投稿者「HIDEKI」のアーカイブ

HIDEKI について

1965年生まれ 小田原で半自給自足の生活を9年 一世一代の旅に出ることを決心 仕事を辞め 大型バイクの免許を取得 バンクーバーにてバイクを購入 現在メキシコ カンクンでキューバ行きまで停滞中です 現在1カ国目 フィリピンにて英語留学中 10kg減量 親知らずを抜き 家財一式を売り払い バックパックに必要なものを詰め込んで旅に出ました フィリピンで5ヶ月の英語学習 カナダでバイクを購入、アラスカ、アメリカ、メキシコ、キューバ、ベリーズを旅して現在はグアテマラでスペイン語留学中

日々雑思 信頼のない真実の情報は発信できるのか

スペイン語学校の情報がないと幾人かの人から聞いたので情報を一新することにした。ただ、ここではたと困ってしまった。前にも書いたように宿を商う者の情報は信じてもらえない。当然kamomosi が発信する情報は信頼性がないことになる。以前は自分が各学校を巡り、インタビューした事を書いたが、それではウソだと思われてしまう。今更個人で書きましたといってもウェブサイトの名前がkamomosi では益々ヤラセだと勘ぐられてしまう。各学校のウェブサイトかSNSのリンクを貼って終わりというのもなんだかへん。そんなものは調べればすぐ出るし、関連したブログなども沢山出てくる。となるとなぜ?人は情報がないといったのであろう?

先日、ネットで調べてもすぐには出て来ない情報をくださいと言われ、そんなことあるのかと試しに調べてみると、僕の知る限りで出て来ない情報は皆無だった。ここで言っているのはツーリストに必要なという意味で、当然村の商店が変わったといったことではない。日本語、英語、スペイン語、その他フランス語でもなんでも検索すれば現地ならではといった情報など、もはや見つけることが出来ない情報を見つけることが難しい。つい5年前まで英語もスペイン語も出来なかったオッさんですら出来るのだから、今の旅行者にとっては造作もない。存在しない情報を探しているのだろうか?

新しい宿のホームページも見る人は少なく、やっぱりなと予想通りの展開となっている。写真を多くして、読まれない宿の情報は最低限にしてあるのだけれど、口コミがないから機能していない。

果たして僕は既にスペインの学校には通っていないのでリアルな体験を書くことも出来ない。いくら先生達と普段から話をしていて、伝える術を持っていても信じてもらえないジレンマに陥ってしまうばかりでまったく筆が進まなくなってしまい諦めた。

上記のような事が分かっているのに解決方が見つからない。矛盾するこれらの事象をどのように解決したらいいのだろう。ウソではありませんと訴えたらいいのであろうか。芸人がやったように涙を流したら信じてもらえるのだろうか。そんな事をしようものなら取り返しがつかなくなってしまうのではないかとすくんでしまう。もはやこれまで。

面白いこともあった。先日、日本食のお店の写真を掲載した。屋根からステキな花が垂れ、ハチドリがつねにやってくる。店に立ち寄った時、多くの人がやってくるのだけれど、彼等は写真を撮るためだけにやってきて、店内で散々携帯で撮った挙句、帰ってしまうという。事の善し悪しを言うつもりはないけど、情報が伝わっている事を知った。これはどうした事なのだろう。写真だけは真実だと信じてもらえることはわかるが学校を写真だけで紹介出来るのだろうか?表現の仕方を考える。でも写真だけを撮りに行かれてしまっては先方に迷惑をかけるだけとなってしまう。どうすればいいのだろうか。

どこかの島で日本人お断りと書いた店が炎上しているという。さまざまな事が書かれていたが、どれももっともだとも思える。先進国で暮らす人々の考え方がわからなくなってきたのであろうか。朝来る女中と話していると非常に単純明快でわかりやすい。彼女の話の真意をはかりウソを見抜いてやろう、それは違うと言ってやろう、徹底的に叩いてやろうとはまったく思わない。それどころか、なるほどなるほど、もっと話しておくれと言いたくなる。彼女の考え方に興味津々となり、また一つ違う事を知れたと喜んでいる。

さて、筆が止まってしまったスペイン語学校の情報どうしたものか。

日々雑思 穏やかな日々が続きます

女中のセシーの遅刻癖はあいも変わらず。はじめの頃は頭にきたが最近はこちらが慣れてしまった。毎日のように言い訳を聞くのが楽しい。「犬のウンコを踏んだ、ヒデキここでこすっていいか」と庭に行く。土の上でサンダルを擦っている。落ち葉でストラップを擦る。「大きかったのか、洗ってやるからよこせ」「大丈夫だ、臭い」と泣きそうな顔をしている。やはりグアテマラ人でも犬のウンコを踏むのは嫌らしい。「私の足は臭いか」「お前の足はいつも臭い」「ホントか?、昨日友達が、サンダルを買うのに付き合った。可愛いのがあって、試しに履いたら私の足がすごく臭かった。なんでかわからないけど、時々臭い」そうしたことを平気で言えるようになったかとふと考えてしまった。

遅刻は悪だ。休むより悪い。会社には始業時間の前に必ず来い。余裕を持って通勤しろ。よく言われる。ところが残業は悪だ。時間ちょうどに帰れ。余裕を持って退社しろとは言われない。最後までやったら帰れと言われてしまう。言葉を真に受けて帰ろうものなら、ホントに帰ったと呆れられる。時間を守るのはいいことだけれど、それは始業終業両方に言えるはずで、なんとも不思議。時間で働くのか、内容で働くのかにもよるけれど。セシーは時間には来ないが、仕事はキッチリとやってくれるし、時間が過ぎても帰らずにキチンと終わらせているので言うことをやめた。中には仕事が終わろうが終わるまいが時間でさっさと帰ってしまう輩もいるのに彼女は珍しい。自分の気持ちにも余裕が出来、彼女が来るのを待ちながら、最初の一言が何かを想像するのが日課となった。

先日、撒いた種が発芽する。なぜかわからないが、何回撒いてもダメな種もある。今回セシーに撒かせた種はことごとく発芽しないので「きっと私の手がなにか悪いのだ」「毒だな」と言うとふくれている。「もう少し待ってみよう、なにがいけないのだろう」「もう一度撒くか?きっと鳥が食べたのだ」そう考えられる思考回路が羨ましい。シンプルでくよくよしない。そう、発芽したタネがあるだけ前進したと考えることが肝心、ここは何一つ思い通りにはいかないのだから。困った時は前を見るしかない。

悪人が来つつあると言う。エルサルバドルから。なんでも新しい大統領が、2つの悪い組織を仲直りをさせて1つにまとまれと仲直りをさせた。ところがホントに悪い奴はそうしたことが嫌いなので、グアテマラにやって来て悪いことを続けたい。この近辺に来るらしい、悪事を働いたなどの噂が立ち始める。すると村役場がエルサルバドルから来る悪い奴らに家を貸してはいけない。そうした輩はここには来れないと宣言を出した。それがニュースになりテレビで流れた。久しぶりに中米らしい出来事だなぁと感じた。

村の知名度を上げたいのでエコロジーやリサイクルといった言葉をぶち上げて、ビニールやストローを禁止した。それはいいと思うのだけれど、食器を洗うスポンジの代わりにバナナの葉を使うと綺麗になると言い出した。スポンジもプラスチックではあるけれど、この時代にバナナの葉とは驚いた。庭にバナナを植えなければ毎日は使えない。どうしてやりすぎてしまうのだろう。思い込んで夢中でいる間はいいだろうけど、熱が冷めた後、何やってんだとならないことを祈る。バナナの葉で洗うなどまっぴらごめんだ。

日々雑思 庭仕事 ウソつき

畑にコンポストで作った堆肥を入れる。今回の堆肥はよく出来た。定期的に天地返しをしたのでよく肥えた良い土になっている。セシーと種を蒔く。ネギ、レタス、ホウレンソウ、シソ、ダイコン、エダマメ、ハクサイ、オクラ、ヒマカ、花。ルッコラ、ニラ、バジルはよく世代交代を繰り返し、年中採れる。勝手の異なるこの国での畑仕事は失敗の繰り返しであっ

庭への小径を直す。少し崩れかけていたので、石垣を組み直す。コンクリをハンマーで割りバラすのに1日。盛り土、仮組みに1日。仕上げに1日かかった。全て手作業。こうした作業もすっかり慣れた。グアテマラ人と同じやり方。泥だらけになり、腕も背中もパンパンとなったが心地よい。夜も早く寝て、快眠できた。庭の大きな土木作業はコレで完了。

庭木の剪定をする。雨季は伸びるのが早くて困る。剪定鋏を使い短くて刈り込んでゆく。テラスに陽がよくあたるようになった。あまりによく陽が当たるので庭に居ついているカエルが耐えられずに飛び出してきた。突然のことに戸惑ったのか庭の真ん中で真っ黒な目玉を見開いている。しばらく見ていると目の光がなくなり、あきらめたように石垣を超えて去っていった。

宿の方はソーシャルメディアを使って宣伝にならないように、ならないようにと気をつける。以前言われたように企業や宿の言うことは信用されていないということを肝に命じて忘れないようにしなければならない。ウソつきだと思われていることを自覚しながら、こうしたことを続けなければならないのは結構しんどい作業。皆んなやっているのだ、人様から信用されていると思うなと言い聞かせる。不思議なのはそれでもいいねと見知らぬ人からされるのはどうしたことなのであろう。写真だけであろうと嘘かもしれないではないかと益々持ってわからない。人が来ないので聞くことも出来ず、疑心暗鬼となる。人様からウソつきのレッテルを貼られた正直でありたい者はどうすればいいのであろうか。

日々雑思 祭り 萬毎

村祭り

村は年に一度の祭りとなる。花火が上がり、音楽を鳴らし、踊る。通りには露店が立ち並び、服、毛布、菓子、雑貨を売る。安いものもある、そうでないものもある。遊具は観覧車、トランポリン、コインゲーム、カート、ビンゴなど普段は見ない遊びが所狭しと並び子供を誘う。村人は浮かれ、ねり歩き泡沫の祭りを楽しむ。

メルカドも賑わう。いつもより張り切った売り子が声を上げて客を呼ぶ。この時ばかりは車もトゥクトゥクも迂回するので四六時中渋滞している。譲り合う気持ちがないのでにらめっことなり、益々流れが悪くなる。

チョナの露店で一休みする。儲かっているのかと訊ねる。同じだと答えながらザルに入った金を見せた。いちばん大きなお金ばかり入っているので、儲かっているではないかと聞くとヒデキこれはなと言い出した。聞くと、皆この祭りのために銀行にへ行き借金をする。借りた時は全ていちばん大きなお金なので、みんながみんなそれを使う。だからこの時期は小さなお金が足りなくなるのだそうだ。たった数日のために必要以上の借金をするのでよく月からはひたすら銀行に返済する日々となる、私はそんなことはしないと少し寂しそうな顔をした。チョナにも小さな子がいる。きっとたくさん遊んでやりたいのであろう。

整える

庭のテラスにタールを塗る。1年に1度。塗った後は数日間乾かないので、客の居ない今のうちに済ませてしまう。鼻の奥をくすぐるようなタール臭は子供の頃に乗った電車の床の匂い。塗りたての床はヌルヌルとして油が虹色に光っていた。靴でこすっているうちに真っ黒になってしまい父に叱られた記憶が蘇る。

2階のテラスに設えたテーブルを直す。いまいち塩梅が悪く、なかなか客も使ってくれないので、テーブルに合わせて椅子の足を少し切ったがどうにもしっくりこない。果たして使ってもらえるであろうか。

3階のトイレのタンクから水漏れしていたのに気がつかず、すっかり水がなくなってしまう。タンクの蓋を開け、中の止水栓を見ると外れて水が出っ放しになっていたのだ。いったいいつ外れたのであろう。直す。

部屋のカーテンを取り替える。セシーやグラシエラから貰ったスカートをリメイクしてもらった。セシーの従兄弟に頼む。安い。とても良くなった。民族衣装を使った部屋の装飾は喜ばれるであろうか。

朝、セシーから連絡があって今日は行けない。兄嫁の子供の面倒を頼まれた。だから行けない。でも明日は確かだ。と書いてある。先日一時帰国した友人が日本は大変よーみんなとっても働いてると聞いたばかりだったので笑ってしまった。たしかにそうなのかもしれない。どちらも幸せなのだ。大丈夫だ良い一日をと返信した。

ちょっとした手入れがここでの生活には欠かせない。良く整えた場所場所には正気が戻り、いつ客が来ても大丈夫だと言っているように思えた。不意に看板を作ろうと思いつく。これまで頑なに拒んできたが、新しいことを始めてみようと思った。ペンキで描いた真新しい看板は中々の出来栄えとなった。セシーが来たら一緒に掲げよう。

スペイン語

携帯に入れてあるアプリが毎日一つ新しい単語を更新していることに気がついた。例文もあり良い。訳を付けてソーシャルメディアで配信する。自分のボキャブラリーを増やすことにもなる。聞いたことのない単語、忘れてしまった単語のなんと多いことだろう。身の回りにあるものは一度は聞いたことがあるはずなのに、未だに全部言うことが出来ない。

この一週間で気になった単語

tenazas ペンチ

Expiró 有効期限

Venció 賞味期限

Podrido 腐る

Violacion レイプ

Delito 犯罪

Transparente クリア透明

Rostro

Champron トウガラシの一種

Pitalla ドラゴンフルーツ

Columna

Letrero 看板

Abrazadera パイプ止め金具

omega →L字金具

初めてのものも忘れていたものもある。単語の海は果てしない。

日々雑思 初恋の相手になる R18

友人が訪ねてきた。下ネタばかり話すのであまりいい気はしないのだけど、悪いヤツではない。最近どうだと聞くと、問題ばかりだと珍しくしょげている。どうしたのだと切り出したのがまずかった。結論から言えばヤツはカミングアウトした。つまりLGBT

 

愛とはなにか、本当の心とはなにかを永遠と聞く羽目になる。それを否定するつもりもないしそうした友人もいる。ただし、ここではそれがどれだけのことかとなると話は深刻だ。田舎でキリスト教が大半を占めるこの村でそんなことが知れ渡ればあっという間に好奇の目にさらされ、職を失い、家を追い出されてもおかしくない。絶対に内緒にしてくれと言われ、大丈夫だ秘密は守る、でもここではお前の望むパートナーは見つかないぞ、ここに来る外人であれば何人かはいるだろうが、観光客では出会いも難しいであろうに。シティや町に行くのはどうだ、仕事もそちらに移動すれば少しは生きやすいであろう。この宿に来る日本人はどうだと聞いてくる。わからん。最近はそうした日本人も多くなってきているがまぁもし来たら教えてやるよ。とお茶を濁す。するとヒデキはoral sexをしたことがあるかとグイと迫ってきた。あると答える。俺はないんだと言う。吹き出しそうになるのを抑え、だって以前は女が対象であったであろう、そのくらいあるだろうと言うとグアテマラの女はしたがらないとボソリと言う。今度はこちらが驚いてえーっと声をあげてしまった。すると日本では普通なのかと身を乗り出すので、普通だと思うと答える。いったいこいつらの性生活は如何様なものなのだと興味が湧いてきた。キリスト教は贖罪規定の考え方が残っているからoral sexはご法度なのは知っているが、それがあったのは中世、日本で言えば鎌倉時代のこと。まさか現代でそれがまかり通っているとはと今度はこちらが身を乗り出して、じゃあお前もしないのか、つまり女のアソコを舐めないのかと聞いてみた。するとオレは好きだが、いや好きだったがこの国のオンナはしない、だからおれはしてもらいたいんだというや否やこちらの手を握りこみ、潤んだ目でじっと見ている。この時、すべてを悟った。狙われている。こちらの動揺を見せないように、相手を不用意な衝動にからせないようにそっと手を振りほどく。まぁ待て、俺にはそんな気は無いと静かに答える。ヤツはグアテマラに来て何年だ、その間なにもないのか、それで大丈夫なのか、それとも彼女がいるのかと追いすがる。毎日とは言わない、少しでいいのだ頼む。

 

問題が問題でしかも相手はグアテマラ人、単細胞のラティーノ。1つ対応を間違えれば、数日間ガニ股で歩かなくてはならなくなる。好奇心と不安がないまぜになってザワザワと何往復も背中を往復している。笑い出しそうになるのを必死に堪えて、俺もこの村に住んでいるのだ。わかるだろ。そんな危険な事には関わりたくないし、お前もそうであろう。この村ではすぐにみんなが知る事になるぞ、そうなったらどうなるかお前の方がわかっているであろうと諭す。ヤツは、そうだと言ってクビをかき切る仕草をしている。たたみかけるようにお前今日はパーティに行くのだろ、もう時間だ早く行けと促し部屋に逃げる。すると後ろからついてきて部屋に入ってきた。ダメだ!愛だの心だのとお前が言ったのであろう出ろと言うと。なんで〜と情けない声になって出て行った。すぐに部屋の鍵をかけ、ヤバかったなぁと安堵の息をついた。その後も何回かドアをノックしてヒデキ、ヒデキと小声で言っていたが、開けるほど馬鹿ではない。ヤツがパーティに行ったようなのでやっと一安心できた。

人生初のカミングアウト立会い。しかも狙われるという、またとない機会に恵まれた。思い出すだけで冷や汗と笑いがこみ上げてくる。まさかこの歳になって初恋?相手として見られるとは思いもしなかった、しかもそれが男からであったとは。久しぶりに味わうこの感覚。しかしそれはレモンスカッシュの味でもなければ、砂浜に描いたハートを流す波の音でもなかった。ヤツの名誉のために言っておくと、生物には一定数そうした嗜好になる者がいるのだと思う。それは自然な流れなのであろう。カミングアウトするのも大変な勇気がいったのだと想像に難くない。だから僕は彼を怒っていないしジャッジするつもりもない。このところ家の用心に隙が出ていたところでもあるので、就寝前の戸締りを厳にせよという警鐘であったのだきっと。余談ではあるけれど、今日も僕はちゃんと丸椅子に座っているし、ガニ股で歩いてもいない。ただ寝る前に尻にガムテープを貼っておくかどうかは悩んでいるところ。

このところ、こうした明るい?話題が少なかったので約束を破ってしまう事にはなるけれど、ブログの記事とさせてもらった。この歳になっても驚くことばかり、海外での生活は飽きることがない。それはとても良い事なのだと思う。

日々雑思 不良品の願い

誰も来ない宿を毎日掃除させるのはなんだかかわいそうなので庭の草むしりとした。石垣のツタを丁寧に刈る。セシーは雑草を抜いている。2時間程でキレイになった。畑のバジルがわっさりと出来たので、セシーがバジルペーストを作ろうと言う。急に言われてどうしたのだ?と驚いた。彼女がパスタを茹で、出来立てのペーストを絡めた。ここで働き出してから随分と料理の腕を上げてきた。もうなんの遜色もない。

「写真を撮るからキレイに盛り付けろ」「大丈夫だ、今日はこの皿を使うがいいか」考えながら盛り付けていてホーと感心した。「出来た。どうだ?ヒデキ」「マソメノス(まぁまぁだ)」と言うと少しふくれたがわかってもいるようで何も言わない。

最近は毎日のように予約が来たかと切り出してくる。やはり心配をかけている。「ない」と一言だけで終わる。「断ってるんじゃないのか」「いや」「なんで来ないのだ」「この宿はダメかもしれんな、来月は倒産だハハハ、倒産のquiebrabancarrotaとはどう違うんだ」「同じだ、どっちも使える。倒産するのか?」「わからんな、心配するな、今月も来月も給料は払えるよ、多分」

こちらが食べているのを上目遣いで見ている。「ウマイ、いい出来だ。とても美味しいよ」「ありがとう、でもこのパスタ麺は美味しくないでしょ、沢山茹でた、時間もかけたのに良くない」「いつものがなかったからな、ごちそうさまセシー」「今日は何するのだ?」「なにもしない」「ぜんぜん出てないのか?メルカドにも行ってないだろ、食べてるのか」「出てない。食べる必要がない」「グラシエラは来るのか?」「来ない。レッスンを持っている。大丈夫だセシー心配するな。もう帰れ。良い週末を」「あなたも」

彼女なりに心配してくれているのであろう。ありがたい。心配するなとしか言えない自分が情けない。彼女が去った後、いかんなぁコレではと反省する。それはスペイン語ではなく、こんな時どう言ったらいいのかがわからない。昔からそうだった。こればかりは世代とかではなく、自身の曲がった性根なのだと思う。

有名芸能人の言葉を借りれば自分は何万個に一個の不良品。いろいろ物議はあるが不良品は必ずある。言葉が強ければリテールアウトレット(訳あり)でもいい。製品にも、生き物にも不良品が発生しない物を僕は知らない。世に出せない物だからこそ世間様に迷惑をかけないように、訳ありだと悟られないようにそっとしておくか、不良部品を交換するように心を改めなければいけない。

よく人から完璧主義だと言われる。不良が故に良に憧れるからこそ、心配や助けを求めることはやってはいけない。良品は人に心配をかけない。良品は助けを必要としない。助けや心配は人として良品であるからこそ出来るコミュニケーションの手段。不良品は人を不快にさせる。不良品は人を煩わせてしまう。不意に心配されると戸惑ってしまって、不良品であることを悟られてしまったのではないか、欠けを見られてしまったのではないかと不安にかられて馬鹿正直に答えることしか出来ない。

激昂する高齢者などが取り上げられることがあるが経年劣化による劣りを隠そうとしているのではないか。まだ使える。まだ品質を保っているのだと必死に訴えているようにも見える。たけきものも遂にはほろびぬ。良品であったためしがない者はそれすらない。であるからこそ、相手の心をキチンとくみ取りましたという言葉を使ってみたい。たとえ良品の人がさりげなく使うように、そういった人達の心の動きが理解出来ないとしてもセシーの優しさに一度くらいは応えてやりたい。

そういう風に不良品は思うのです。

日々雑思 客のない宿で暮らす者

庭にトカゲが来た。ミドリ色と青色の鮮やかな15センチと茶色い10センチ。鮮やかな方がオスで地味なのはメス。オスはよく日向に出て腕立て伏せをするように体を上下に揺すっている。メスはベロを出したり引っ込めたりばかりで体は揺すらない。いつも一緒に居るところを見るとツガイなのだ。ある日、いつもと違う場所にオスがいる。石垣の上を走ってどこかへ行ってしまった。メスの方もすっかり姿がない。別れたか。

セシーと掃除をしているとき、3センチほどのネズミが2匹出た。セシーは箒を担いでとっとと逃げて素っ頓狂に鳴いている。隅に追いやって箒で叩くとチューと小さな声で鳴いて死んだ。後からやってきた3匹目も同じように死んだ。向こうの家の草むらに投げておしまい。今日は出ない。セシーはアレは子沢山だからヒデキちゃんと注意しておけと言う。どうするのだと聞くと猫飼えと一言。猫と鼠は世界共通なのだ。

部屋の屋根と壁の隙間にスズメが巣を作り、子育てをしている。部屋の中を我が物顔で飛ぶのでワーと脅かしてやると窓にぶつかって右往左往している。部屋の外に出してやった。何度もやるのでコイツはアホではないかと思うのだけれど子育て中だから怖くても逃げないのであろう。仕方ないので巣立ちまでは好きにさせてやることに決めた。立つ鳥後を濁さずと言うが、どうにも汚して困る。

寿司パーティーの手伝いに行く。犬を亡くして寂しいであろう猫を持っていけと言われる。いらぬと言ったが、今持ってくるからと連れてきてしまった。仕方なく受け取る。まだ小さいので慣れるまで一緒に寝てやろうと布団に入れてやると首元でゴロゴロいいながら寝ていた。朝、鳴くので外に出してやる。ウンチ、オシッコを済ませるとエサをくれと言う。食べ終わると椅子の下にもぐって一日中寝ている。3日目の朝、いつものようにエサをくれてる。庭で遊んでいたのを見たのが最後、どこかへ消えてしまった。やはり猫は居着かないのだと悟る。放ったらかしが悪かったのであろうか。コイツイテモツマラナイと思ったのであろうか。居ればエサはくれてやったのに。

セシーから腹が痛いから休むと連絡が入る。翌日も来ないであろうと思っていたらヒョッコリ遅刻してやって来た。「大丈夫か」「食い過ぎた」と笑っている。村の村長選で応援していた女性候補が落選したので3軒ハシゴしてヤケ食いしまくったらしい。選挙は現村長の再選であった。「隣村では選挙をめぐるケンカがあったのだ。知ってるか」「知らぬ、意外と激しいな」「あ〜ん嫌だよ〜まったく」とおばさんのような口調で言うので笑ってしまった。ここの娘達の口癖は面白い。「あ〜〜ン」と甲高く同意の気持ちを表し、「ひィーーン」と時間の長さやスピードを表す。おばさんぽくもあるし、可愛らしくもある。

朝、いつものようにカフェの墓前で祈る。

Padre nuestro que estás en el cielo. Te pido por la vida de Café que el este bien y que te lo guardes,también te pido tu consuelo para mi. Oro en el nombre de tu hijo Jesucristo. Amén.

最近は、うる覚えだけど言えるようになってきた。信心などこれっぽっちもないが、この時ばかりは神妙な気持ちとなる。カフェがお前も少しは人らしい気持ちを持てと残していってくれたのだきっと。祈りを終えた途端に近所の者が金の無心に来た。観光客が少なく、皆が枯渇し出している。うちにも客が来なくなって久しい。相手が言い終わらぬうちにムリだと追い返した。せっかく人が穏やかな気持ちになっている時に馬鹿者め。やはり根っこの部分が腐っているな、カフェ、スマン。すぐに行くから待っててくれと言いたいところだが、カフェとは行く場所が違う。待てど暮らせどはかわいそうだ。

観光客がいなくてはケーキも売れない。ひたすらに息をひそめてそっと暮らす。

日々雑思 SNSの使い方に驚いた

今回のブログは自分の気持ちの整理みたいなもので読んでもつまらないとの声が出てきそう。それでも、こうして自分を見つめる事ができる場を持っているのはいいこと。いつもとは違うスタイルですがよろしければお読みください。

先日宿の事を相談した際、沢山のアドバイスをいただいたのだけど、どうにも分からないことがあって戻ってから色々と調べている。わからない事はグーグル先生に聞く。ソーシャルメディアの使い方。どうも使い方を間違えているような、大事なことがわかっていない気がする。モヤモヤして気持ち悪い。

グーグル先生はすぐにいくつかの答えを出してくれた。難解な文字が踊り、まだ日活ロマンポルノのキャッチフレーズの方がわかりやすい。とりあえず片端から読みまくる。

そもそもKamomosi のアカウントってなんだ?宿のSNSとは言ったところで、宿と個人のSNSは別のものではあるけどつながっているではないか?SNSを使ってステキな発信をしている宿も多い。ホームページとは違って扱いも易そうだと思っていたのに難しい。伺った話の中にあったキーワードを打ち込んで先日のアドバイスを補てんしていく。少しずつ話の全容が見えてきた。

「いったいソーシャルメディアってどうつかうのですか?若い人はホームページなど見ないと聞きました」

彼等は話題作りだったり、宿のイメージ向上だったり、売上向上だったりすると言う。やっぱり宣伝であることに変わりはなさそうだ。ところがこの宣伝というのが最近変わってきていて、ステマ、炎上などという言葉を聞くようになった。よくはわからないがそうなると被害者のみならず関係のない人々に寄ってたかって袋叩きに合う。逃げ出すまで許されない。

続けて不思議な事をいう。宣伝してはいけない。自分の商品をいいですよ買ってくださいなどと言ったらいけないという。広告媒体であるはずのソーシャルメディアを使って宣伝できないとはどういう事なのだと益々わからなくなったのでグーグル先生にお願いする。

「旅行者が宿のアカウントを敬遠する理由」(実際はもう少し広くビジネスの話なのだけれどうちは宿なので当てはめてみた)

旅行者の立場から改めて考えろと言われる。

まず、旅行者は宿のアカウントを宿泊意思決定の参考になどしていない。ホームページや広告のようなものは信じてもいない。実際はクチコミ情報を探したり、出会った人から聞いたりした情報を信じるという。なぜか?宿の情報は当たり障りないことばかりで上っ面しかわからない。責任逃れ、炎上を恐れるあまり怖くなってつまらないものになっていて判断の基準として図りようがない。つまり宿が発信している情報は旅行者が必要としているものではない。

では、なぜ宿は発信しているのか?

宿から発信する情報はいかにうちの宿はいいですよと訴えかけるのではなく、宿がどう良かったのかを宿泊した客がソーシャルメディアで伝えやすくするための情報を発信するためだと言う。つまり直接宣伝するのではなく、宿泊した客に宣伝してもらうためにあるという。

どういうことだと色々と調べていくとそこには感情と安易が見えてきた。

変わりゆく旅行者

最近の旅行者はどんどん変わっていて「旅本」や「宿からのありきたりな情報」のような、いかにもといった「イメージ」よりもそこに行った同年代の旅行者からの「本音」や「リアルな体験談」を求めているという。

ありきたりなどこにでもある情報より、信頼できそうな人の顔が載っているSNSを信用するらしい。ここで重要なのはその情報が真実を述べているかどうかではなく読み手の「納得」という感情が働くらしい。

個人が発信する情報など真実かどうかなんて分からなくていいのだという。情報発信者が信頼に足るか、もっと言ってしまえば、その情報が実体験に基づいていなくても構わない。今まで宿の情報に振り回されたり、本に書いてあったことが違うという経験をした若者はそんなものを信じるくらいなら面識がなくても宿と利害関係のない人を信頼しようとなっている。

常にソーシャルメディアからの情報が手に入る今の旅のスタイルは宿からの発信を必要としなくなった。宿はただ部屋代と場所さえ発信して宿泊サイトに登録しておけば後は旅行者同士でその宿の是非を伝えあってくれる。すごい話だ。

納得と情報提供者の信頼

今やどの宿も価格や設備に大差はない。どこに泊まろうが同じであって選択の基準にはなっていない。ではどうやって旅行者は宿を決めているのだろう?

若い旅行者は論理的な説明より、旅先で知り合った友人の話に方に心動かされ、つぎの宿泊先を決めるという。宿で偶然居合わせただけの知らない人でもその人の目や笑顔から信頼性を感じとり、その印象から情報の真偽まで判断してしまうと若主人も言っていた。

ロジカルに情報を解析するのではなく、感情的に情報提供者を評価する。その評価は宿が発信した情報より重要性で上回る。つまり旅行者にとって情報は「何を言っているか」ではなく「誰が言っているのか」の方がずっと重要なことだった。

「ここの場所のことはよくわからないけど、言っている旅ブロガーの◯◯さんは信じられるから」

「面識はないんですけどSNSで繋がっているから信用出来るんです」

以前宿で聞いたことを思い出した。共通する事は旅行者自身が納得しているかどうか、その場所がどうかということはあまりたいした問題ではなく、そこに行くための費用を支払うことに納得できるかどうかが大切だった。

好きか嫌いか、気分がいいか悪いかがとても大切にされていると聞いたこともある。「僕らの世代は、生の人と直接関わることが苦手なんです。嫌な思いはしたくないし、怒られるのが嫌なんです」と言われ正直、それではどうやって職場で同僚や上司、顧客と関わってきたのだろうかと思った事があった。嫌な時はそっとフェードアウトできますからと言われ、そういうものなのかと驚いた。

旅行者は宿や企業が出す情報には関心を示さないけれども、少数の影響力のある、宿や企業と関わりのないブロガーや同時期に興味深い旅をしている旅行者のソーシャルメディアを通じて影響を受け、旅行を楽しむようなっていた。

感情と安易。その時の自分の感情に素直に従う。好きか嫌いか、気持ちがいいか悪いか、やりたいかやりたくないか、こういった安易に選ぶ事が出来る選択肢がキーとなっていた。たしかに言われれば思い当たる節は沢山ある。そして僕はことごとくやってはいけないことをしでかしていた。

僕の思考はおそらく正反対で、常に物事をロジックに考えてきた。過去を振り返って現状を図り未来を見る。そうした癖が染みついている。自分の感情はとりあえず置いておいて。事実だけを積み重ね、それがたとえ自分の意に反したものでも構わなかった。ただ旅行というたのしみにおいてはそれがまずかった。元々楽しむための行為に御託は必要ない。楽しそう、簡単そうという事もありなのだと気がついた。

あー「覆水盆に返らず」

それでは、どのように接するのがより良いのかと聞く。

まず宿泊者や旅通の人に、「ここはいいよ!」と情報を発信してもらえるように、宿やサービスを徹底的に磨きなさい。客にスマートに嫌味なくアプローチをしなさい。彼等を気持ちよくしてあげなさい。彼等の存在を認めてあげなさい。褒めてあげなさい。そのために笑顔の練習をしなさい。挨拶の仕方も重要です。写真写りを研究しなさい。人に好感を持たれる立ち振る舞いに気を使いなさい。でもそれを彼等に悟られてはいけません。あくまで自然に。決してやり過ぎず。質問に真っ当に答えてはいけません。ユーモア、センスのある返答にとどめ相手の話を聞いてあげるのです。

コレは難しい。もう頭を抱えるしかない。一緒に話を伺った大兄も「こりゃワシらには無理ダデ」と肩を落としている。そもそも「サービスしてあげるから投稿してね」というようなやり方はダメなのではなかったのか?(確かステマと言ったと思うけれど確かではない)益々わからなくなる。「やり過ぎはいけません。露骨にやるのはちょっとまずいのです」「?????

「「主体性」が大切です。ある人が宿に泊まって気に入ってくれたとしても、情報の発信をするかしないか、どのように発信するかはその人に委ねるのです」「でも、どうやって?」「やり方はいくつかあります」

要約すると

奥さんや管理人さんに日常のことを発信してもらう。素直な発信は共感を呼ぶし、温かみがある。

宿の事がとっても気に入ってくれた人に熱く語って語ってもらう。なんだか分からないけどこの宿はいいと一生懸命語る人を見て、聞いている人がその気になる。

人気のある発信力のある人にどう宿がいいのか書いてもらう。元々こうした人達は信頼されているので受け入れてもらえる。

どんどん貴重な情報を提供する。お金はとらない。価値観が大切だ。価値があると人が集まる。

すべてに言えることは相手に任せるだった。その人が感じたリアルがなによりも大切だという。

確かに、長々と書いてきたことと一致している。なるほどなぁと感心してしまった。これがすべてだとは思ってはいけない。世代の所為にしてはいけない。人はそれぞれで多様性がある。一般的な傾向として知る上ではとても腑に落ちた。ともかくSNSの使い方の一面が見えた気がした。なんとなくやっているようでよく考えられているのだなぁ。えらいものに手を出してしまったという少しの後悔もあるけどモヤモヤは消えた。

毎日、時間だけはたっぷりあるので、狂ってしまったのではないかと疑う気持ちを持ちつつも、沢山の事を考える事が出来ている。宿の方はどうにもならないが、相手ありきの商売とはこうしたものなのだとあきらめた。新しい試みに手を出してみることは楽しい。なにかを安易に出来るほど若くはないが自分の感情に向き合うのもいいかもしれない。

日々雑思 コーヒー

少し早く目覚めた。夜間に降った雨がチリを流し、スッキリとした朝になる。気持ちがいい。空気が透きとおり対岸までくっきりと見える。葉は汚れを落とし鮮やか。湿った土に柔らかな陽が差す。木陰とのコントラストが美しい。セシーが来るまでの間、コーヒーを淹れる。2階のテラスでのんびりと飲む。いつものテルモスではなくアルミの安カップ。まだ若かった頃、貧弱な装備でキャンプをしていた時に使っていた口に当てると金属の味がするアレ。金属臭が口に広がるように当時の記憶が蘇った。懐かしい。

今使っているコーヒーはサンペドロ産で焙煎屋に頼んでうちの宿のためにローストしてもらったもの。煎り方にこだわり客にサンペドロのコーヒーを飲んでもらいたかった。皮肉なことにこのコーヒーに変えた途端に客が来なくなってしまい提供することは叶わず間もなく飲みきってしまう。いい方に解釈すれば独り占め。好きなだけ飲める贅沢三昧の毎日となる。

日中は軽く汗ばむ陽気となり、湖畔のカフェでのんびりと勉強していると話しかけられた。

話しかけて来たのはアメリカ人。以前はタイで暮らしていたと言う。彼はベテラン(退役軍人)で少し足が悪いようだ。合点がいった。あまりスペイン語が得意でない彼に合わせて英語にする。僕の拙い英語ではどうかと思ったが思いの外楽しく会話が出来る。自分でも不思議なくらい言葉が出てきた。よくこんな言い回し覚えていたなと話しながら驚いている自分におかしくなってしまった。

彼がタバコを勧める。「ラッキーストライク」ひさびさに見たパッケージ。しかもそれは両切りのオリジナルだった。ベトナム戦争当時、兵隊達はこぞってこのタバコを吸っていた。それは弾に当たらないようにというおまじない。ウィットが効いていていかにも古き良きアメリカだ。そんな話をすると彼は大喜びして、益々盛り上がり、あっという間に時間が過ぎた。彼はとても楽しかったと言って立ち上がった。少し後にカフェを出る。支払いをしようとすると店長のルイスがもう終わってるよ彼が済ませていったと言う。

嫌味なく良い思い出を作ってあげることが出来る彼が羨ましくなった。

夕方からザッときた。カフェも散歩が出来ねぇとふてくされている。雨が止んだので濡れた廊下をモップで拭く。3階に上がると目に飛び込んできたのは一面に広がるホタルの光。いったい何千匹いるのであろうと思うほど数。まるでクリスマスのイルミネーションのように輝く光をしばらくの間眺めてしまった。年に何回かあるスーパーハッチ(一種類の昆虫がいっせいに羽化する現象)は僕の楽しみの一つ。

カフェを誘い裏山に行く。思いがけず散歩が出来たカフェも大喜び。カフェも山肌を見て不思議そうな顔をしているところを見ると彼にもホタルが見えているのであろうか。藪から戻ったカフェは触りたくないほど汚れている。「お前今日風呂な」と言うとゲーという顔をしている。汚れついでに夜の散歩を続ける。カフェの思うに任せて後をついて行く。こっちもいいか?と振り向くカフェ。好きにしろと手で行け行けと伝えると嬉しそうに先に進む。湖畔から坂道を登りセントロに向かう。雨後で人通りは多くないけど屋台はやっていた。カフェに「食べるか」と聞くとサッサと店の前に行き座っている。知り合いの奥さんが肉を焼いている。「たまには食べようかな」と言ってイスに座る。トリのバーベキューを頼んだ。「コーヒー飲む?」と聞かれ反射的に「うん」と答えてしまってからしまったと思った。屋台のコーヒーは薄くて砂糖がたっぷり入っていてお世辞にも美味しいとは言えない。「甘いんでしょ」と聞く。彼女は「大丈夫よ、今出来たの、まだ砂糖入れてないから、あなた砂糖は入れないんでしょ」と言う。そんなこと言ったっけと自分でも忘れてしまったことを彼女は覚えていてくれた。それが嬉しかった。出てきたコーヒーはいつもの薄いヤツではあったけれどとても美味しく感じた。カフェのために少し多めに肉もくれて、カフェも喜んでいる。食べ終わり「全部でいくら?」と聞くと食事代しか言わないので「コーヒー代忘れてるよ」と言うと「今日はいいわ」とニッコリ笑った。「ありがとう、ごちそうさま、いい夜を」「あなたも」。普段は客の夕食の支度で夕方から夜に出かけることなど滅多に出来ない。突然こうした優しさに触れるとジンとくる。何が良かったのかまったくわからないけれど思わず口から出た言葉は「よかった」だった。

僕が旅で味わってみたい要素がこんなにもあったのかと驚きの日々。旅行者はこんな出会いを毎日味わっているのかと羨ましくなった。観光する場所などなくていい。規模が小さく皆が知り合いのような感じで根が優しい。観光客の少なくなった今時期は本当のサンペドロの良さを味わえる。まだまだやりたいことの続きがある。悠々として急がなければ、きっとこんな良い時間は長くは続かないから。

最後の文は少し前に書いてあったものです。その通りに良い時間が長く続くことはなかったけれど最後の散歩は僕らにとってとてもいい時間でした。書き溜めた記事はこれが最後です。

宿のサイトを移転してこのブログを宿泊者の目から遠ざける事にしました。僕の思考はきつすぎるのです。人と異なる思考は他者の気分を害してしまうことがあるのです。そうであっても僕は自分の考えを吐き出す場が必要なのです。Kamomosi の活動の一つとしての宿業をこのサイトから外すことは抵抗がありましたが、無理がある事も感じていました。これはちょうど良い機会だと判断しました。ブログはこのまま更新していきます。いつもいいねと言ってくれる方々にはこの場を借りてお礼を申し上げます。

日々雑思 自分のことを少し

読点をなるべく使わず句点で文書を短く切る書き方に変えました。文書は短い方が読み手が書き手の意図をくみやすくなるからです。長い文章は様々な捉え方をされます。僕はそれを望みません。一人称の主語を省き、客観的に自分の心を捉え、ストレートに表す事を心がけました。僕の考え方が簡潔に伝わればと願っています。

自分のことを少し。カフェを失い、なにもする気が起きない日々。自分は連れ合いをなくしたらすぐに後を追うタイプなのだと気がついた。客が来なくても焦りもない。旅を再開しようか。理不尽にグアテマラ人が憎くてこの国から出たい気もする。でもカフェは死んでまで飼い主と別れなければならないのかと思うととてもここを去るこは出来ない。ポッカリとなにかが抜け落ちてしまった宿を見て、カフェがどれほどkamomosi を助けていたわかる。もう少しの間、カフェに寄り添ってここで暮らそう。さびしい思いをさせたくない。カフェの死を受け入れることなくこの地は去れない。そうと決めた。

セシーとキッチンの掃除をした。いつ客が来てもいいように掃除をしていると気持ちまで整理されていくような気になる。セシーが「宿は休みのままにするのか」と聞くので「来る者があれば泊める、でも来ないよ」「そんなことはない、2人訪ねて来たと聞いた」「そうか、それは悪いことをしたな」「それだけか」「まだ、やることがある」「なんだ」「わからない。わからないから困っている。どうやらオレは間違っているらしい」「なにを」「全部だ」「はっ?」「なんでもない。歳をとりすぎただけだ。ジェネレーションギャップってなんて言うんだ?」「なに?」「お前も年寄りのことは理解できないか?」「あ~ん、ムリだ」「だろうな、いいんだそれで、なにか考えておくから心配するな」とは言ったものの何の策もない。とりあえず、頼まれたホームページを作ることから始めなければ、自分のことは当分後でいい。

久しぶりにメルカドに行く。皆が久しぶりと言ってくれる。セシーに食べさせる食事の材料を買い、宿に戻る。夜、ズンバに行く。ここでも皆が心配していたと言ってくれた。ズンバの帰り、コンセプシオン一家に会う。家が停電して暗いので出て来たと言う。少し話をする。娘が「ヒデキは日本に帰ってしまうのかと思って心配した」と言う。悪い者ばかりではない。いい者もいる。この3年で友人も出来た。言葉や文化の違いに苛立ち、ジレンマに囚われているのは自分の心の持ちようが悪いから。心悪しき者ほど澄んだ心に憧れる。それが益々心を腐らせる。心悪しきことは承知しているから善き者達とは距離をおきたい。彼等の善き心を汚したくない。優しい気持ちに触れていると居ても立っても居られくなり早々に退散した。

夜、やるべきことを考えた。自分のことなると、とんとわからない。これまで仕事をしていて自分のためになど働いたこともない。そんなことを考えたこともなかった。結果に左右されるような働き方を使用人はしてはいけない。自分の存在価値など仕事に求めてはいけない。仕事に感情など持ち込んだらやっていられない。好き嫌いで働くことは間違いを起こす元だ。常に自分は間違えていると疑っていなければいつか無意識のうちに間違えをおこす。仕事柄なのか長年の習慣でそうなってしまった。日本を離れて5年目となってもその癖は治ることもない。そんなつまらぬ人間が人様を喜ばせることなどおこがましくて出来たものではない。ちゃんちゃらおかしい。人から必要とされているなどと考えただけで恐ろしくなってしまう。生きていた証を一切残したくない。人様の記憶に残るなんて1番恥ずかしいことだと信じてきた。

ここにきて、それを変えなければ客は来ないとなれば打つ手もない。うわべだけの繕いのやり方は性に合わない。

父が死んだ時、坊さんがこんなことを言っていた。「われや先、人や先、今日ともしらず、明日とも知らず、おくれさきだつ人はもとのしづくすゑの露よりもしげしといへり。されば朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり。すでに無常の風来たりぬれば、すなわちふたつのまなこたちまちに閉ぢ、ひとつの息ながくたえぬれば、紅顔むなしく変じて」

人なんていつ死ぬわからないだぜ。朝には元気でも夕方には白骨になっていることだってあるんだから。誰だって死んじゃうんだ。どうせ死んじゃうんなら真っ当に生きなきゃダメさ。

自分の人生に正直に生きようとした乞食坊主が行乞の旅の中で模索し続け

どうしようもない私が歩いている

「所詮、何物でもない。愚かな旅人として、浮草のやうに、あの岸からこの岸へ、みじめなやすらかさを享楽してゐる私をあはれみ且つよろこぶ」と書き残している。

もう考えても仕方ない。自分の生きてきた時代に従ってゆくのみ。性根の腐ったオッサンでいよう。宿の扉は開けた。どうしようもないとわかっていても真っ当に宿としてやっていくしかない。受け入れられることのない者が1人や2人いてもいい。どうしようもない者が歩き続けるための道しか歩けないのだから。

若い方にはネガティヴと捉えられるかもしれません。それでもいいのだとわかったのです。若い頃にもらった年寄りからの忠告の意味が今になってわかりました。そんな年齢的になったのだと知りました。でも、それは僕もまた忠告を聞かず同じ間違いを犯したからこそわかったのです。失敗はひとを成長させます。僕はまた少し成長することが出来たと感じています。