引越しを言いに行ったら・・・

ある日

IMG_3210大家のところへに行く。なかなかに言いずらく伸ばし伸ばしにしていたが、天気が良かったので引っ越しを言うことに決めた。
「外国に行くのです。だから出て行くのです」というと「まぁまぁ、話でもへー、しましょう」と言われるので玄関先にお邪魔する。
出て行く話などそっちのけで「借家の前にある梅林を宅地にするのは相続のためだ、制度が変わるので今のうちにやっておくのだ。死んだ時にセガレ達はきっと役人に騙し取られるからそれが心配だ」と聞かされる。多くを持つ者にはそれなりの苦労があるのだ。情けないセガレ達が心配でまだあの世に行くことができないのだ。

奥様がコーヒーを持ってきてくれ「どうぞおあがりなさい」と差し出す。奥様の入れたコーヒーは、インスタントでとても甘いので嫌いだ。血まで甘くなりそうだと思うのだけれど、いつも飲み干してきた。
「へー、外国に行くのですか、外国はいけないよー。日本がいい。日本が一番だよ。外国はいけない」と言う。
「小田原は土地がいいから、ここに住めばいい、お父さんが死んだら土地を売るからここに住むのがいいよー」
「うちの息子は50を過ぎたがまだ嫁が来ない。仕事もせずにうちにいるのは私達夫婦が甘やかしたからだけど、誰かいい人はいないかい?おたくの後にあのうちに入ってくれるいい人はいないかい?」
話が飛び気味になるが、いつものことなので曖昧に「たいへんですねー、でも私はおかげさまで楽しくやっています」と答えておく。

すると矢継ぎ早に
「隣の松尾さんは大丈夫かい?季節の変わり目になるとあの人はいけない、病院と役所の世話になっているから仕方ない。我慢しておくれよ。反対側の坂下さんは9月から家賃を溜め込んでしまって全然こないけどどうしているかねー、おられるのかねー」
「そろそろ催促に行こうかと思ってんだけど元気にされているのかねー」
「おたくは家賃をきちんと払ってくれるいい人だからずっと居てもらいたいんだよー、外国なんかいけないよー、いつ帰ってくるんだい」
「男は仕事が大切だから、いつまでも働かないといけない。うちのお父さんは定年まで国鉄で働いた。私も明治製菓で12月から3月まで働いた」
と言ったきり黙ってしまわれたのはきっと昔を思い出していたのだろ。疲れて休んでいられるのかもしれない。
頃合いと見て立ち上がる。奥様はハッとして「お茶を出すから、まだいなさいよー。話をしましょうよー」と言って今度はお茶を持ってくる。びしょびしょに濡れた茶碗の水滴を廊下にブっと払う。びしゃと水滴が廊下に飛び散る。茶渋で変色した急須からそそぐ。お茶受け付き。

一呼吸大きく意気込んで
「外国はいけないよー、外国に行ったら子供が面倒を見てくれないからねー。ここにいれば老人ホームに・・あれは月に17万払うんだ・・20万だっかねー。あんたさんも知ってるだろう。でもここにいれば庭が見れるしねー、老人ホームに入ったらそりゃぁ楽団が来て、ご飯もついて、お風呂の世話もしてくれるけど、あれはいけないと友達がこそーりへー、教えてくれたよー。変化がないんだよ、いけないね」
「自分で風呂を浴びられて、小便垂れられるうちはここが一番だよ。老人ホーム・・あれはいけないねー、でも楽団はたのしいだろうねー」
と斜め上を見上げたきり動かなくなってしまわれた。

溜まりに溜まった言いたかったことを口角に唾をしながら、ニコニコと楽しそうに語る大家は幸せだ。ぬるくなったお茶をグビリと飲み干し「それじゃぁ、あらためてきますので」と切り出すと大家が「そういえば来月分の家賃はまだだったねー」にっこり笑って会釈する。

「もう一度あの不味いコーヒーを飲むのかぁ」とうなだれておいとました。

大家さんは御歳とって92歳。カクシャクとされた旦那さんと86歳の奥様。大地主で畑に田んぼに取り組んでおられる。いつまでも元気でいてもらいたいものだ。

おわり

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