日々雑思 自分のことを少し

読点をなるべく使わず句点で文書を短く切る書き方に変えました。文書は短い方が読み手が書き手の意図をくみやすくなるからです。長い文章は様々な捉え方をされます。僕はそれを望みません。一人称の主語を省き、客観的に自分の心を捉え、ストレートに表す事を心がけました。僕の考え方が簡潔に伝わればと願っています。

自分のことを少し。カフェを失い、なにもする気が起きない日々。自分は連れ合いをなくしたらすぐに後を追うタイプなのだと気がついた。客が来なくても焦りもない。旅を再開しようか。理不尽にグアテマラ人が憎くてこの国から出たい気もする。でもカフェは死んでまで飼い主と別れなければならないのかと思うととてもここを去るこは出来ない。ポッカリとなにかが抜け落ちてしまった宿を見て、カフェがどれほどkamomosi を助けていたわかる。もう少しの間、カフェに寄り添ってここで暮らそう。さびしい思いをさせたくない。カフェの死を受け入れることなくこの地は去れない。そうと決めた。

セシーとキッチンの掃除をした。いつ客が来てもいいように掃除をしていると気持ちまで整理されていくような気になる。セシーが「宿は休みのままにするのか」と聞くので「来る者があれば泊める、でも来ないよ」「そんなことはない、2人訪ねて来たと聞いた」「そうか、それは悪いことをしたな」「それだけか」「まだ、やることがある」「なんだ」「わからない。わからないから困っている。どうやらオレは間違っているらしい」「なにを」「全部だ」「はっ?」「なんでもない。歳をとりすぎただけだ。ジェネレーションギャップってなんて言うんだ?」「なに?」「お前も年寄りのことは理解できないか?」「あ~ん、ムリだ」「だろうな、いいんだそれで、なにか考えておくから心配するな」とは言ったものの何の策もない。とりあえず、頼まれたホームページを作ることから始めなければ、自分のことは当分後でいい。

久しぶりにメルカドに行く。皆が久しぶりと言ってくれる。セシーに食べさせる食事の材料を買い、宿に戻る。夜、ズンバに行く。ここでも皆が心配していたと言ってくれた。ズンバの帰り、コンセプシオン一家に会う。家が停電して暗いので出て来たと言う。少し話をする。娘が「ヒデキは日本に帰ってしまうのかと思って心配した」と言う。悪い者ばかりではない。いい者もいる。この3年で友人も出来た。言葉や文化の違いに苛立ち、ジレンマに囚われているのは自分の心の持ちようが悪いから。心悪しき者ほど澄んだ心に憧れる。それが益々心を腐らせる。心悪しきことは承知しているから善き者達とは距離をおきたい。彼等の善き心を汚したくない。優しい気持ちに触れていると居ても立っても居られくなり早々に退散した。

夜、やるべきことを考えた。自分のことなると、とんとわからない。これまで仕事をしていて自分のためになど働いたこともない。そんなことを考えたこともなかった。結果に左右されるような働き方を使用人はしてはいけない。自分の存在価値など仕事に求めてはいけない。仕事に感情など持ち込んだらやっていられない。好き嫌いで働くことは間違いを起こす元だ。常に自分は間違えていると疑っていなければいつか無意識のうちに間違えをおこす。仕事柄なのか長年の習慣でそうなってしまった。日本を離れて5年目となってもその癖は治ることもない。そんなつまらぬ人間が人様を喜ばせることなどおこがましくて出来たものではない。ちゃんちゃらおかしい。人から必要とされているなどと考えただけで恐ろしくなってしまう。生きていた証を一切残したくない。人様の記憶に残るなんて1番恥ずかしいことだと信じてきた。

ここにきて、それを変えなければ客は来ないとなれば打つ手もない。うわべだけの繕いのやり方は性に合わない。

父が死んだ時、坊さんがこんなことを言っていた。「われや先、人や先、今日ともしらず、明日とも知らず、おくれさきだつ人はもとのしづくすゑの露よりもしげしといへり。されば朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり。すでに無常の風来たりぬれば、すなわちふたつのまなこたちまちに閉ぢ、ひとつの息ながくたえぬれば、紅顔むなしく変じて」

人なんていつ死ぬわからないだぜ。朝には元気でも夕方には白骨になっていることだってあるんだから。誰だって死んじゃうんだ。どうせ死んじゃうんなら真っ当に生きなきゃダメさ。

自分の人生に正直に生きようとした乞食坊主が行乞の旅の中で模索し続け

どうしようもない私が歩いている

「所詮、何物でもない。愚かな旅人として、浮草のやうに、あの岸からこの岸へ、みじめなやすらかさを享楽してゐる私をあはれみ且つよろこぶ」と書き残している。

もう考えても仕方ない。自分の生きてきた時代に従ってゆくのみ。性根の腐ったオッサンでいよう。宿の扉は開けた。どうしようもないとわかっていても真っ当に宿としてやっていくしかない。受け入れられることのない者が1人や2人いてもいい。どうしようもない者が歩き続けるための道しか歩けないのだから。

若い方にはネガティヴと捉えられるかもしれません。それでもいいのだとわかったのです。若い頃にもらった年寄りからの忠告の意味が今になってわかりました。そんな年齢的になったのだと知りました。でも、それは僕もまた忠告を聞かず同じ間違いを犯したからこそわかったのです。失敗はひとを成長させます。僕はまた少し成長することが出来たと感じています。

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