日々雑思 穏やかな日々

セマナサンタが終わり、村は再び静けさを取り戻す。皆、気が抜けたように呆けていて、観光客の居ない通りに居るものも魂が抜けてしまったように座り込んでいる。観光客が来ないと嘆いた者もすでに諦めてなにも言わなくなる。取り立てて見るべきものもない村なのだから、この位でちょうど良いのだと思うようにしてから、ずいぶんと楽になった。予想以上に客はなく、スペイン語の留学をしている殿方が居なければとっくに宿を閉めてしまい、出稼ぎにでも出るのだけれど、そういう訳にもいかないので、一日中家に閉じこもりスペイン語を勉強して過ごしているうちに月末となってしまった。

あまり人と話す事が得意ではないのに丸2年も見知らぬ人と話してきたのだからそろそろ本来の自分に戻って雨季が終わるまで過ごすのもいいものかもしれない。女中のセシリアが「客と話してないのかと」聞いてくる。「話していない」と答えるとビックリした顔をしているので「客もまったく話さないのだから構わないのだ、邪魔をするものではない」と説明する。「食事の時も話さないのか、一緒に食べないのか」とたたみかけるので「話さないが一緒には食べている」と言うと、呆れた顔となる。「他の予約はないのか」と質問を変える。「ない」と一言だけ答えると「断っているのであろう、受け入れなければダメだ」と訴える。「断ってはいない。本当に何もないのだから仕方がない。少し勉強に付き合え」と話題を変えた。

勉強をしている時セシリアが「この本を貸してくれ」と言い出す。どうしたのかと顔を見ると「私はスペイン語を知らない。少し勉強しなければダメだ」と真顔で言い出す。「ここの村はボキャブラリーが少ないと言われているよ。普段マヤ語なのだから仕方ないだろう。メキシコや都会に行くとよくわかるんだ」「私は学校を休んでから普段スペイン語を使わなくなってしまった。知らない単語が沢山ある。この本の中にもある。ヒデキに質問されて説明出来ない。もちろん意味はわかるけど使ったことのない言葉がある。だから貸してくれ」「持っていけ」やりとりを終えて、ここまで来たかと息をついた。最近は見たことがない単語が少なくなってきた。まだうる覚えではあるけれど一度や二度は見た事のある単語ばかりとなっている。耳も良くなり口も良くなった。大抵のことは通じるし、聞き取りも出来る。でもなぜかバカっぽさを感じてしまうのは何故だろうか。英語では見えなかった領域に入った感はある。皆一度は通る道なのかもしれない。日本では月が変わると時代が変わるのだ。新しい時代の幕開けとなり、自分のスペイン語にも維新があるのだろうか。時代の遺物となって忘れられたこの宿のように、スペイン語も腐り果てていくのであろうか。もうすぐ雨季がやってくる。

毎晩夜になると同じ時間に同じ場所で同じ姿勢で止まっているクモが出る。自分の部屋なのでなんとなくそのままにしておいてやる。机の上の壁に張り付いて、朝にはどこかへ居なくなってしまう。よく見る。複眼が赤っぽく光ってこちらを見ているようだ。ザクロのようなその目の中には何人もの自分がいるのだ。こちらのことなど、なんでも見通しているかのような目玉が急に光りを失ってポトリと机の上に落ちた。腹を上にして弱々しく脚を動かしていたがやがて自分のことを抱え込むように縮こまり、動かなくなった。紙でくるみ捨てる。

庭に水やりをする。フランス女が植えたトマトはずいぶんと育っていて、その根元にガマガエルが住み着いた。水が嫌いなのかいつも決まって壁の方に逃げる。よじ登って向こう側へ行きたそうにしているのでホースのノズルを絞って勢いよくカエルの背中に当ててやる。水に無理やり押されるように下に落ちた。上から覗くとこちら側を向いて恨めしそうな目で見上げている。ガラス玉のような目を2、3度瞬いてから乾いた土の方にのそりのそりと歩いて行ってしまった。カエルの去った方にホースで水を撒き散らしてやった。

昼間ベランダで本を読む読んでいると、カフェが連れてきたのかノミが足元にいる。サンダルで潰してやろうと踏んづけるがピンと飛び跳ねるのでライターで炙るとたわいもなく動かなくなった。雨季の前は増えるので念入りに掃除をするが、ああした連中は数で生き残りを図るので殺虫剤を撒いておく。ベランダの下にも撒こうと潜ると知らない子猫が死んでいた。鳥につつかれたのか目玉が穴のようにくりぬけている。まだ腐っていないので昨夜か今朝に死んだのであろう。どおりでカフェが朝方に鳴いていたのかと合点がいった。ビニール袋に入れてゴミ屋に出してしまう。猫もまた最近あちこちに増えている。夜中にギャーと悲鳴がするのは野良犬にやられてしまっているのだろう。

買い物の帰り、前を女が2人急ぎ足で行く。何を急いでいるのかと見ていると、道の向こうの家からもう1人の女が何をしているのだと金切り声をあげて飛び出してきた。見る見るうちに怒った顔は泣き顔になり、もう死んでしまったと言っている。翌日、葬式が開かれた。この前まで遊んでいた子供だった。家の前を通るとオーイオーイとまるで人を呼んでいるかのように泣いている女の声が聞こえてきた。数日後、家の前を通ると中からは笑い声が聞こえてきた。ここの者は強いのだ。そうでないと暮らしていけないのだ。夜、いつものように教会から聞こえてくる下手な歌声が少ししみた。

夜、客とカレーを食べる。いただきますと言ったきり黙ったまま食べる。セシリアが居たらどんな顔をするのであろうか。食べ終えて客が小さな声でご馳走さまでしたと呟く。お粗末様でしたと答えて終い。客は部屋に戻り、自分は皿を洗う。しんと静まり返った台所でコーヒーを淹れた。今日もまた穏やかな1日であった。

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