日々雑思 ねこ いぬ アルファ米とサバ缶と

ねこ
ある日、突然、気がついた。猫の顔は思っていたよりも平らなものなのだ。鞠のようであり、そこに耳をのせたら猫になる。ずっと犬の様に口元が飛びだしているのだと思っていた。口も小さい。歯も細い。犬のようにポリポリと骨を食べる事できなさそうにしか見えない。身体は柔らかく、よく伸びる。指で押すと体の中に飲み込まれ、向こう側を触れるのではないかと試してみたくなる。手足も普段は短いけれども伸すとどこまでも長くなり、見た目が可笑しくてバランスがよくない。尻尾もまた犬とは違い滑らかに良く動く。尾の先だけも動かせるし、付け根からちから強く動かすこともできる。猫の尻尾で機嫌が分かると言うけれど、そもそもケダモノの機嫌などとるような事をしないので、そんなことで一喜一憂する訳も無い。

産まれたばかりの時からうちに来て住んでいる猫は、そんな風に思われていると知ってか知らずか大人しく悪さもあまりしない。叱られると良く憶え、わがままを言わずに我慢している。犬のカフェもくっつかれるのは絶対に許さない。一定の距離を必ず守るように猫に言って聞かせているのだきっと。カフェのご飯に手を出したりすれば容赦なくやられてしまう。猫の頭がスッポリとカフェの口の中に入ってしまうほどガブリとやられてしまう。腰を抜かしたように後ずさって物陰からジッと物欲しそうにしている姿が乞食女のようであさましい。

あまりのあしらわれように、客がくるとまるで自分が猫である事を思い出したように媚び諂い、ぴったりと寄り添って可愛いがってもらっている。すっかりと寛ぎ、ひとときの幸せを感じているかのようだ。
そうした油断をしているので夜寝る前の用足しを忘れ、ベッドの上でふん尿を垂れ流してしまうのだ。風呂から戻って部屋に入ると、いままさに用を足そうとしている猫と目が合う。じっとこちらを見ながらヨタヨタと前進しつつ下痢便を垂れ流し、前脚でかきむしっている。悪臭が漂い。布団が糞まみれとなった。バカ猫め。

いぬ
カフェはよほど気に入った客としか出かけない。何が基準となっているのか皆目見当もつかないが、何かあるのであろう。最近のお気に入りはキミちゃん。スペイン語学校に通っている。ズンバ部のメンバー。カフェはキミちゃんのことがいたくお気に入りのようでどこへでも付いていく。ところがキミちゃんはケダモノがあまり好きではない。「一緒は嫌だ」と言っているがカフェはどこ吹く風で付いていく。カフェは道案内をするつもりで先に立って歩いて行く。自分のお気に入りの道を行こうと先に曲がる。するとキミちゃんは反対側に曲がってしまう。するとカフェは戻ってキミちゃんにピッタリと寄り添うように歩くように気をつけた。ある日、いつものように学校に行く。キミちゃんは対岸の村に学校が終わってからいくことにしていたのでカフェもやる気満々でボート乗り場に行ったけれども、おいていかれてしまった。そんな事であろうと後からカフェを桟橋に迎えに行った。果たしてカフェは桟橋にちょこんと座ってキミちゃんを待っていた。後ろから声をかけると喜んでいる。ボートの兄ちゃんたちも「この犬は賢い」と褒めていた。

昨日、いつものようにカフェは出掛けたが、しばらくしてスセリーと戻ってきた。どうしたのだと声をかけると、片方の目から涙がこぼれた。キミちゃんに振られたなとすぐにわかる。しょんぼりとうなだれているので、かわいそうになった。スセリーに宿を頼み、湖に散歩に出かけた。嬉しそうに走りまわり、いつもより長く泳いで気が晴れたのか帰ると寝てしまった。帰ってきたキミちゃんは「嫌いじゃないけどキミじゃないんだ」とケロリと言っている。カフェに「世の中の女はキミちゃんだけじゃない、きっと他にいい女がいるのだからそれにしろ、悪いことは言わないからあの女は諦めるのだ」と諭す。夜の餌に肉をたくさんあげた。

アルファ米とサバ缶と
”尾西食品は安心と思いがけない幸せを提供します。”さすがと思わせるこのフレーズは日本の食品メーカー尾西食品株式会社のもの。災害時やアウトドアでおいしいご飯を食べられるように乾燥米を売っている。以前泊まったお客さんから貰ったものを食べる。山菜おこわと書いてある。この味をすでに知っていたので、特段なにもワクワクしたりせずにお湯を入れて15分程待ち食べた。一口。瞬間、思いがけない幸せを感じてしまう。”これってこんなに美味しかったのだ”と驚いた。まさに日本の山菜ご飯であった。まじまじをパックの中を覗く、どう贔屓目に見てもうちで炊く米より断然おいしい。カリフォルニア米を圧力鍋で炊くよりまったくおいしい。こんなのが毎日食べられるのであればこれで暮らしていけると心底思った。不謹慎を承知で言えば、災害時に乾燥米ではとグチをこぼす被災者はいったい普段何を食べているのであろうか、よほど美味しいものを食べているのか、一度御所版に預かりたいものだと思ってしまった。外国に出て4年、日本の味をすっかり忘れてしまったのだ。

サバ缶をもらう。客に「サバ缶を出したいのだけれど良いか」ときく。客も日本を離れ3年以上が過ぎている人であったので喜んでくれている。さらに「調理をせずに食べたいのだけれど良いか」僕はオリジナルで食べたいと申し出る。そうしようと話がまとまった。
ご飯を炊き、サバ缶を温める。缶の中にある汁までしっかりと出し切って皿にもる。ホウレンソウを添えてうやうやと口に運んだ。体から力が抜けた。美味しいのだ。とても美味しい。グアテマラでは食べものを食べておいしいと感じることはほぼ無い。自分の作る料理にしても同じで、いくら頑張ったとしても日本で作った自分の料理には到底及ばない。敗北感が押し寄せた。どんなに丁寧に作った料理でもこのサバ缶一つに敵わない。宿をはじめてから食べて来たものの中で一番おいしい。客と二人で汁まですべて平らげてしまった。「食とはこうあるべきなのだよ」とサバ缶に言われた気がした。そしてこれまでご飯がおいしいと言われて来たのは全て世辞であったのだと悟る。おいしいというのはこういう事なのだとこの歳になって初めてわかった気がした。

食後、捨てたサバ缶をゴミ箱から拾い、まじまじと見る。いまだに芳醇な香りを発するその缶はすでに役割を終えてしまってはいるけれど僕が忘れてしまった大切な何かを失う事なく保っていた。今の僕なら羽田空港のトイレで暮らせるであろう。なんの躊躇も無く寝起きし、なんならウォシュレットでうがいをする事だってできそうだ。便器の蓋で調理をしたとしてもここで作る食事よりもっと美味しくできそうだ。それほどまでに尾西の乾燥米とサバ缶は素晴らしかった。日本のクオリティーは別次元なのだ。海外での暮らしに慣れすぎてしまった。きっと日本人らしさは日々削り取られてしまって僕自身が道端に捨てられた空き缶やパックのように干からび、錆びつき、犬にも見向きもされない物体へと変わり果ててしまった。以前のような輝きを失ってしまったのだ。少し悲しい。

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