僕は道徳観でしか計れなくなっていたことに気がついた

少し前、日本人の女の子がお金を盗んだ話題がSNSで拡散されていた。事の善悪をここで語るつもりはないけれど、一連の投稿やコメントを見ていて思うところがあったで書いておこうと思いました。

書きたいことは2つです。

倫理観と道徳観について
物事を計る物差しについて

昔、まだ日本が貧しかった頃、村八分という制度がありました。村の中で、掟や秩序を破った者に対して地域に居住する住民が結束して葬式と火事の場合をのぞき交際を絶つ制裁行為のことです。挨拶はもちろん、ほぼ一切の付き合いをされなくなった者は実質、村での生活ができなくなってしまう仲間はずれの制裁です。

映画「楢山節考」のワンシーンで、掟を破った家族が穴に生き埋めにされるシーンがあって、小さな村という共同体で、”掟”を破った者に対して仕置きとして夜中に村人の襲撃を受け、家族全員があっという間に穴に放り込まれ生き埋めにされてしまうシーンでした。

食料の窃盗をした一家が”山の神”に背く重罪を犯したとして、此の儘にしては措けない、雨屋の血は泥棒の血だから根絶やしにしなければならないとの理由からです。

僕は次々と投稿される女の子の個人情報を見るたびにこのシーンが頭に浮かんだのです。これではまるで生き埋めだ、逃げ場のない彼女は髪を染め短くしましたが、それもまたすぐに投稿されてしまいます。このあたりにいるらしい、気をつけてくださいとのメッセージが入ってきます。そんな投稿を見ているうちに、穴の中に落とされ問答無用で埋められていくのをみているような気持ちになったのです。
確かに人様の金品を盗ることは許されない行為だけれど。逃げ場のない追い詰め方になんとも言えない、舌がざらつくような感覚がありました。

僕は一連の投稿を見るたびに自分の気持ちがなぜざわつくのだろうと思ったのです。それは僕には関係のないところで起きていることでした。こんな話があった程度に知っていればいい、どこにでもあるようなトラブルです。でも投稿では、その事件を知らない人までがまる自分のことのように投稿を繰り返しています。情報を共有しましょう、女の子が現れたらすぐに教え合いましょうといった全体主義的な思考になっている気がして怖さを感じました。僕には、まさしく我が意を得たりと言った感じで正義を前面に押し出してはいても、寄ってたかっていじめているようにしか見えなかったのです。人をあんな風に追い詰めていくのが正しい義であるとは思えなかったのです。

旅人という共同体の掟において人のものを盗むという行為が旅の神に背く重罪で、そのまま放置しておくことができないというのであれば宿の本や情報ノートを持って行ってしまう者も同罪であるはずなのに、本を持って行った旅人の個人情報や日本での生活、出身地、現在の居どころ、容姿の変更、実名をさらけ出されたという話を聞いたことがありません。本やその他の宿の物品であれば構わないということであれば話はわかりやすいのです。大抵の日本人宿の注意書きには本を持っていかないようにと書かれていて、そうした張り紙は、現実に窃盗が起きていることを表しています。でもこうした行為が咎められることはないのです。

先述の事件は僕も泊まったことがある宿で起きました。とても安心感のある宿だったのだけれど、情報ノートが盗まれたとき、主人は SNSで投稿することはありませんでした。あのとき、もしも盗った人が分かっていたら今回のようになったのでしょうか。でもみんな一様に「ひどい奴がいるものですね」「信じられません」と言います。それは至極真っ当な意見なのです。
お金はダメで物はいいとすればその違いはなんなのでしょう。日本語で書かれた本は手に入りにくく、各宿の主人は集めるために相当の苦労をしています。旅人のお金が貴重なように宿の本も貴重だと思うのです。金額の差?物とお金の差?宿と客の差?盗った女の子の態度がふてぶてしかったから?本を盗っていく行為は善ではないにせよ許される範囲であり、お金は絶対悪として許されない?
善と悪の境がどこにあるのか、もしくは生き埋めと村八分の境が旅人の掟にも存在するのでしょうか。そしてそれを取り巻く旅人の正義とは何を指しているのでしょうか。本を失敬した旅人は旅が続けられないほど追い詰められるべきなのか。盗まれた宿の主人が文句をいうのはわかるのです。当事者以外の人、まだ旅を始めてもいない人がこうした情報を共有することがダメだとも思いません。でも僕は違和感を感じてしまうのです。

確かに書かれていることは反論のしようのない正義だけれど、個人を特定できるような投稿や警察などの法治的な組織に頼らずに当事者を罰する行為は私刑や村八分といった行為と被って見えてしまうのです。それが正義だとするならば正当な裁きが持つ意味がなくなってしまう危うさを感じます。
僕は道徳観や倫理観について考えさせられました。日本人のこうした感覚の中には本や傘は入っていないのではないか、窃盗という犯罪の枠外にある行為として容認することができるのではないか。でも、それが道徳観や倫理観に反することは承知していて話題が出た時は正義側に意見を振ることでことをなかったように振舞ってしまうのではないかと思ったのです。それは日本人のほとんどが共有しる認識であって、暗黙の了解とでもいうべきグレーゾンがある気がします。
でもこうした認識は、全員が一方向にしか目がいかない怖さもあるのです。誰もが悪いことだと認めつつもある種のガス抜き栓のように利用していて、道徳観にも倫理観にも外れた行為だと認識し、正義という大義名分を得ることで「一家を生き埋めにする大義を得た」となると徹底的に叩きまくる怖さが含まれている気がするのです。

道徳感(人としてどうあるべきか)倫理観(社会に対してどのようにあるべきか)が世界的にも特に高い日本(僕は少なくともそう感じています)ではその価値観も近いものになっていて、集団心理が働くと、倫理観が優先され、個人としての道徳観が薄れてしまい、結果として袋叩きのようなことが起きるのではないかと考えたのです。とすればSNSという社会性の強い媒体で拡散された件は倫理観ではかられたため社会的制裁という形に変質し、本や備品はSNSで拡散されなかったために個人的道徳観が問われ、制裁には至らなかったと考えることができます。なるほど僕は今回の件を道徳観で計っていました。日本社会から離脱してしまった僕は道徳観でしか今回の件を計っていませんでしたが、旅人は再び日本へと帰り、日本社会に復帰するため倫理観で計っていたのです。

物事を計る物差しが人と違っていたことに気がつかなかった僕。それは人と比べられない物差しを持てたらというこのブログの題名にもなっているのにこの違いを知るのに数ヶ月もかかってしまいました。僕が持つ道徳観が正しいかどうかはわかりませんが少なくとも日本的倫理観のタガは外れたようです。然りとてグアテマラの倫理観は未だ理解できず、なんとも宙ぶらりんな感じです。社会とどう関わっていくべきかは僕の命題でもあるのです。自分の倫理観がリセットされたことはいいことです。また僕は自由になった気がします。

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