その犬の名は薄井幸代

2週間ほど前からうちに来るようになったメスの子犬。飼い主がいるのかいないのか素性の知れない犬。この辺りの犬にしては目が素直そうだったので餌をくれてやった。おどおどした態度はかなりひどい目にあって来たことを示している。尻尾を丸め足の間に挟んだ姿は情けないを通り越して滑稽だ。毎日のようにやって来るので少しずつ慣らしていき、風呂に入れたり、寝床を与えてやっているうちにすっかり情が湧いて来る。

この犬もまた軽薄で、散歩に連れていくと足元でわちゃわちゃと騒ぐので蹴躓いて犬が転んだところを思いっきり踏んづけてしまう。パニックになった犬は、大きな叫び声をあげて逃げ回り、追いつくとひっくり返って怯えている。バカな犬だと呆れるしかないけれど、リードを引っ張り無理やり歩かせる。2度とバカなことをしないように前に出ようとする犬の紐を引っ張る。怯えてギャン泣く、それでも前に出ようとするので今度は鼻面を蹴飛ばしてやる。今度は驚いて腰を抜かしている。何度かそんなことを繰り返しているうちにこちらの顔色を伺うようになり、前に出て馬鹿騒ぎをすることなく歩くようになってくる。たまに忘れるが、紐を軽く引くだけで思い出すらしく、しばらくはちゃんとしている。

専用の餌皿を作ってやり、カフェと一緒に食べさせる。カフェの嫌いな鳥の皮をやる。まるで餓鬼のように貪り食うその様は、この犬が自炊犬であることを示している。自炊犬とは飼われてはいるけれど、餌はもらえない犬のこと。この辺りの犬は自分の食い扶持は自分でなんとかしなければならない。勢い余ってカフェのご飯に口を出した。思い切り頭をぶん殴ると、またひっくり返っている。首根っこをむんずと掴みぐいと吊るす。ダメだと強く言ってもう一度餌をやる。おどおどしながらまた食べ始める。よほど腹が減っているのだろう。カフェの皿には肉と骨が付いているのでそれが気になって仕方ない。黙って見ているとまた口を出したので頭をギャンギャン言うまで抑えつける。今度は2度と口を出さない。意外と賢い部分があると見直す。台所に入ろうとするが手を前に出すと入って来ない。いい匂いがすると我慢ならないようで入って来てしまう。尻を蹴り上げてドアからほっぽり出す。2度と入って来ない。

そんな毎日を繰り返しながら、噛みつかないか、バカ吠えしないかなどジックリと観察する。すっかり服従の態度を示すようになったので風呂に入れる。逃げ出そうとするがどやしつけると大人しくなった。人に逆らうことはいけないことだと体に染み込ませ、お客さんに迷惑をかけないようにしておかないといけない。紐でつなぎ我慢強さを見る。徐々に時間を延ばしていく。夜になると帰るので飼い主がいるのか、隠れ家があるのかわからない。ある日ついにうちに泊まる。フカフカのクッションとタオルが気に入ったのか朝までずっと寝ていた。ご飯の時もよく心得、散歩の時も馬鹿騒ぎをせず、風呂にも慣れた。

何日か来ない日があったけれど、ひょっこり現れた犬はひどく怯え、情けなさを丸出しにしている。口に手をやるとヒャンと泣いて怯えている。何かあったのだろうと思った。餌をやると喜んで服従の姿勢を表し、僕の手をペロペロと舐め頭を擦り付けてくる。あんなに怒られているのにこいつはバカかとも思ったけれどついつい情にほだされて名前をつける「薄井幸代」とつけた。見るからに不幸せそうななりからすぐにその名前に決めた。

宿のお客さんたちにも概ね好評で、悪さをしない。よく鍛えればいい犬になりそうなのでうちで飼うことに決めようとした矢先。ある日、散歩から帰ってくるとおじさんがやって来て、その犬はうちの犬だと言う。薄井幸代は、たまげたようにひっくり返ってブルブルと震えながらも懸命に足に挟んだ尻尾を振って媚を売っている。これはこのおじさんの犬なのだとわかった。薄井幸代は観念したようにトボトボと帰って行った。たまに薄井幸代のキャンキャンとなく声が聞こえてくるが、どうにもならない。

数日経ったある日、薄井幸代がうちの前にいて懸命に尻尾を振っている。門を開けるとグネグネとおかしな動きで中に入ってくる。気でも狂ってしまったかのように尻尾を振りまくり、あげた餌を貪り食べている。庭に招き鶏肉をやる。ますますガツガツと食べまくり、すっかり平らげてしまってから、正気を取り戻した。首には荒縄が巻かれそのまま紐となって引きずっている。紐の端は食いちぎって来たようにバラバラとなりまとまりがない。お腹が空いてここに駆け込んだのだろう。でもうちは駆け込み寺ではないので男に追われた女を匿うことはしない。2度と来ないようにぶちのめしてやろうかとも思ったけれど、身の上を考えるとかわいそうでそれもできない。すると察したのか薄井幸代は門を出ていく。心配そうにカフェがついていくがしばらく家の前をウロウロした後に帰って行った。

この数日間、屋上にあがると薄井幸代の悲鳴が聞こえてくる。1度逃げたのでさらに厳重に縛られているようだ。布団を干している時にちらりと薄井幸代の姿が見えた。紐に繋がれた首が引きちぎれてしまわんばかりに振りほどこうと暴れている。自分の動きでますます首が締まり悲惨な声を出していた。薄井幸代はやはりバカな犬で幸が薄いのだ。

うちに来れば厚井幸とでも改名してやったのに。犬も人間も出所、門地により生まれながらに一生が決まってしまうのだ。いくら賢くても、いくら可愛くてもダメなのだ。薄井幸代、来世に期待するのだよ。アディオス。

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